「お母さん、こういうのってどうやったら美味しくなるの?」 そんな電話が掛かってくることもなくなった。一人娘の美月が就職を機に家を出てから、半年が経つ。 四十八歳の香織(かおり)にとって、娘のための弁当作りも、休日の山のような洗濯も、かつては「早く終わってほしい日常」だったはずなのに。いざそれが無くなると、心の中にぽっかりと空洞ができ、自分の人生の役割が終わってしまったような虚脱感だけが残った。 まるで、長い年月をかけて誰かのために水を注ぎ続け、ついに自分自身が干上がってしまった水脈のように。 金曜日の夕方。夕食の買い物に出ようとしたとき、インターホンが鳴った。 配達員から受け取った小さなダンボール箱には、美月の少し癖のある字で宛名が書かれていた。中に入っていたのは、不格好な瓶詰めのゆず茶と、一枚の短い便箋。 『お母さんへ。最近寒くなってきたから、昔よく作ってくれたゆず茶、見よう見まねで作ってみたよ。あんまり美味しくないかもしれないけど、飲んでね。毎日働いて、家事して、これを作ってくれてたお母さんの凄さが、一人暮らしをしてやっとわかりました』 手紙を読み終えた瞬間、香織の目から不意に涙がこぼれ落ちた。 ぽつり、ぽつりと、すっかり乾ききっていたはずの心に、温かい雫が染み込んでいく。 いつだったか、テレビのドキュメンタリー番組で、「還流(かんりゅう)」という言葉を聞いたことがある。 海の水は、表面の温かい水と深層の冷たい水が、何千年もかけて地球全体を循環しているのだという。私はずっと、与えっぱなしで、すべてがどこかへ流れ去って消えてしまったのだと思っていた。私の注いできた愛情も、若かった時間も。 けれど、それは違ったのだ。 私が日々の中で注ぎ続けてきたものは、娘という海を巡り、長い時間をかけて形を変え、こうして再び私のもとへと還ってきた。決して無くなっていたわけではなかった。 キッチンに立ち、お湯を沸かす。瓶の蓋を開けると、ふわりと懐かしく、そして少しだけ不器用な柚子の香りがした。 マグカップに注いだ琥珀色の液体を一口飲む。甘酸っぱい温もりが、身体の隅々にまでゆっくりと行き渡る。 私の役割が完全に終わったわけじゃない。これからは、還ってきたこの温かさを胸の奥で温めながら、自分のための時間を生きていけばいいのだ。 窓の外では、いつの間にか降り出した秋の雨が、アスファルトを優...