「夕飯、何がいい?」
「なんでもいいよ、任せる」
新聞から目を離さずに答える夫の横顔を見ながら、四十九歳の聡子(さとこ)は小さく息を吐いた。
子どもたちが独立し、静かになった一軒家。パートと家事をこなすだけの毎日は、まるで綺麗に舗装された道路をただなぞるように平坦だ。怒りもなければ、激しい喜びもない。「〇〇ちゃんの熱心なお母さん」だった頃の私はもうどこにもいなくて、今の私はただの「妻」であり、「パートの鈴木さん」という、世界の背景の一部になってしまったような気がしていた。
ある土曜日の午後。買い出しの途中で、普段は通り過ぎる駅前の小さな園芸店に、ふと足が止まった。
色とりどりの花の隅で、小さな素焼きの鉢に植えられたミントが、初夏の風に揺れている。
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| 鉢に植えられたミント |
そういえば、結婚する前は、実家のベランダで熱心にハーブを育てていたっけ。忘れていた記憶が、不意に鮮返る。あの頃の私は、自分の部屋を好きなもので満たし、自分のためだけに時間を使っていた。
「……これ、ください」
気がつけば、数百円のその鉢を両手で抱えていた。自分の意思で、自分のためだけに買い物をしたのが、なんだかとても久しぶりのような気がした。
家のベランダの特等席に鉢を置く。
それからの毎日は、少しだけ輪郭を変えた。
朝、一番にベランダに出て、土の乾き具合を見る。じょうろで水をやると、乾いた土が弾けるような音を立てて水を吸い込み、瑞々しいミントの香りがふわりと立ち上る。その香りを深く吸い込む時だけは、誰の母親でも妻でもない、ただの「私」に戻れるような気がした。
指先でそっと葉に触れる。小さな、けれど確かな命が、私の手元で育っている。その手応えが、すっかり乾ききっていた聡子の心に、心地よい潤いを与えてくれた。
「なんか、いい匂いがするな」
ある朝、出勤前の夫が珍しくベランダに顔を出した。
「これ、ミント。お茶にしても美味しいのよ」
「へえ。今度、俺にも淹れてよ」
夫が私の顔を見て、一人の人間として微笑んでいる。それは、長年忘れていた、穏やかで温かい空気だった。特別な事件が起きるわけではない。けれど、私が私自身の時間を愛し始めたことで、止まっていた世界の歯車が、静かに、優しく回り出したのを感じた。
年齢を重ねることは、何かを失っていくことだと思っていた。けれど、手放した後にできた心の空白には、また新しい種を撒けばいいのだ。
聡子はベランダの緑を見つめながら、新しく伸びてきた小さな青い芽に、そっと微笑みかけた。
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| ベランダの緑 |
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