深夜の静まり返ったデザイン事務所。 四十三歳になるフリーランスの装丁家、結城紗子は、パソコンの無機質な光に照らされながら、一人で珈琲のマグカップに手を伸ばした。 バツイチ、独身。仕事は充実しているし、何より自分の裁量で生きられる今の気楽さは手放しがたい。若かりし頃のジェットコースターのような激しい恋愛にはもう疲れてしまったし、誰かのために自分のペースを乱すなんて、今の彼女には考えられないことだった。 「遅くまでお疲れ様です」 コンコン、と開いたままのドアがノックされ、落ち着いた低い声が響いた。振り返ると、付き合いの長いフリーのカメラマン、榛名透が立っていた。四十六歳の彼は、いつもどこか飄々としているが、仕事に対しては一切の妥協を許さない男だ。彼もまた、数年前に妻と死別し、一人で静かに生きていることを紗子は知っていた。 「榛名さん。明日の打ち合わせの資料なら、データで送ってくれれば良かったのに」 「近くまで来たので。それに、大きな仕事の区切りですから、少しだけ労いたくて」 榛名が差し出したのは、クラフト紙に包まれた小さなブーケだった。派手なバラでも、華やかな百合でもない。控えめだけれど、ふわりと甘く清楚な香りを放つ、白く可憐な花。 「これって、すずらん……?」 「ええ。ふと通りかかった花屋で見かけて、結城さんに似合うなと」 大人の男からの唐突なプレゼントに、紗子は戸惑いを隠せなかった。仕事仲間としての好意か、それとも。マグカップを持った手が微かに強張る。 「……ありがとうございます。でも、私に似合うだなんて、お世辞が過ぎますよ。こんなに可愛らしい花」 「お世辞じゃありませんよ。静かで、芯が強くて、でも本当はとても繊細な人だ」 榛名の言葉は、いつも以上に真っ直ぐだった。冗談めかしてはぐらかそうとした紗子の言葉を塞ぐように、彼は一歩だけ距離を詰める。 「すずらんの『花言葉』を知っていますか?」 突然の問いに、紗子は小さく首を横に振った。 「『再び幸せが訪れる』です」 その言葉に、紗子の胸の奥で、長年硬く結ばれていた糸がふっと解けるような音がした。もう自分には縁がないと思い込んでいた「幸せ」という単語が、榛名の優しい声に乗って心地よく響く。 「僕たちはもう、若くない。信じることの難しさも、失うことの痛みも、嫌というほど知っている」 榛名は紗子の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめたま...