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四十歳を過ぎてこんなに濡れてるの、恥ずかしいわ



四十歳を過ぎて三年。私は「由美子」という名前を、誰にも呼ばれなくなって久しい。

夫は単身赴任で二年目。娘は大学で一人暮らし。家には私と、夜の静けさだけが残った。

https://youtu.be/fQ1ZRiA9BTg


ある十月の夕方、玄関のチャイムが鳴った。

宅配かと思いドアを開けると、そこに立っていたのは、二十年近く前に私が家庭教師をしていた少年だった。

「先生……お久しぶりです。突然すみません」


名前は加賀見翔太。

昔は背が低くて、いつも俯いてばかりだった子が、今は私を見下ろすほどに背が高くなっていた。スーツの襟元から覗く鎖骨に、大人の色気が漂っている。


「先生のお母様が亡くなられたと聞いて……お線香を上げさせてください」

母は先月、闘病の末に逝った。葬儀には来られなかったらしい。


私は黙って彼をリビングに通した。

お仏壇の前で手を合わせる彼の横顔を見ているうちに、胸の奥がざわざわと疼き始めた。昔と同じ、静かな横顔。でも、もう子供じゃない。


「お茶を淹れますね」

立ち上がろうとしたとき、彼が私の手首を掴んだ。

「先生……ずっと、言えなかったことがあります」

指先が熱い。


「高校三年の冬、先生が辞めるとき……俺、先生のことが好きだったんです」

私は息を呑んだ。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」


「知ってます。先生は俺を生徒としてしか見てなかった。でも、俺は本気だった」

彼の声が低く震える。

「今でも、好きです」


二十歳以上離れた男の子に、こんなふうに言われるなんて。

頭では「だめよ」とわかっているのに、身体が熱くなる。


「翔太くん……もう、昔の話じゃないのよ」

「知ってます。だからこそ、言いたかった」

彼が一歩近づく。私は後ずさり、ソファに腰を落とした。


「先生、泣いてる?」

「……違うわ」

でも、頬が濡れている。

彼が膝をついて、私の前にしゃがみ込んだ。


昔と同じ目線。昔と同じ、優しい瞳。

「先生が泣くの、初めて見ました」

「恥ずかしいわ……こんな歳して」

私は顔を背けた。


すると彼の指が、そっと私の頬に触れた。

「先生……」

掠れた声で名前を呼ばれて、胸が締めつけられる。

「こんなに濡れてるの、恥ずかしいわ」

私は呟いた。

彼の指が止まる。


「え……?」

私はゆっくりと顔を上げた。

涙で滲む視界の中、彼の驚いた顔が見えた。

「濡れてるのは……ここよ」

私は自分の目元を指で拭った。


「瞳が。こんなに泣いてしまって、恥ずかしい」

静寂が落ちる。

次の瞬間、彼が小さく笑った。

そして、私の手を取って、自分の頬に押し当てた。

「俺もです。先生に会えて、嬉しくて……目が熱くなってました」


二人して、泣き笑いみたいな顔をしている。

「先生、これからも……俺のこと、覚えててくれますか?」

私は首を振った。

「忘れたことなんて、一度もないわ」

その夜、彼は帰らなかった。


でも、触れ合ったのは指先だけ。

朝、玄関で見送るとき、彼が言った。

「また来ても……いいですか?」

私は微笑んで、涙を堪えた。


「いつでもおいで。先生、待ってるから」

ドアが閉まる音がして、私はそっと目を閉じた。

濡れていたのは、瞳だけ。

でも、それで十分だった。

二十年分の想いが、ようやく形になった夜だったから。



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