四十歳を過ぎて三年。私は「由美子」という名前を、誰にも呼ばれなくなって久しい。
夫は単身赴任で二年目。娘は大学で一人暮らし。家には私と、夜の静けさだけが残った。
ある十月の夕方、玄関のチャイムが鳴った。
宅配かと思いドアを開けると、そこに立っていたのは、二十年近く前に私が家庭教師をしていた少年だった。
「先生……お久しぶりです。突然すみません」
名前は加賀見翔太。
昔は背が低くて、いつも俯いてばかりだった子が、今は私を見下ろすほどに背が高くなっていた。スーツの襟元から覗く鎖骨に、大人の色気が漂っている。
「先生のお母様が亡くなられたと聞いて……お線香を上げさせてください」
母は先月、闘病の末に逝った。葬儀には来られなかったらしい。
私は黙って彼をリビングに通した。
お仏壇の前で手を合わせる彼の横顔を見ているうちに、胸の奥がざわざわと疼き始めた。昔と同じ、静かな横顔。でも、もう子供じゃない。
「お茶を淹れますね」
立ち上がろうとしたとき、彼が私の手首を掴んだ。
「先生……ずっと、言えなかったことがあります」
指先が熱い。
「高校三年の冬、先生が辞めるとき……俺、先生のことが好きだったんです」
私は息を呑んだ。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「知ってます。先生は俺を生徒としてしか見てなかった。でも、俺は本気だった」
彼の声が低く震える。
「今でも、好きです」
二十歳以上離れた男の子に、こんなふうに言われるなんて。
頭では「だめよ」とわかっているのに、身体が熱くなる。
「翔太くん……もう、昔の話じゃないのよ」
「知ってます。だからこそ、言いたかった」
彼が一歩近づく。私は後ずさり、ソファに腰を落とした。
「先生、泣いてる?」
「……違うわ」
でも、頬が濡れている。
彼が膝をついて、私の前にしゃがみ込んだ。
昔と同じ目線。昔と同じ、優しい瞳。
「先生が泣くの、初めて見ました」
「恥ずかしいわ……こんな歳して」
私は顔を背けた。
すると彼の指が、そっと私の頬に触れた。
「先生……」
掠れた声で名前を呼ばれて、胸が締めつけられる。
「こんなに濡れてるの、恥ずかしいわ」
私は呟いた。
彼の指が止まる。
「え……?」
私はゆっくりと顔を上げた。
涙で滲む視界の中、彼の驚いた顔が見えた。
「濡れてるのは……ここよ」
私は自分の目元を指で拭った。
「瞳が。こんなに泣いてしまって、恥ずかしい」
静寂が落ちる。
次の瞬間、彼が小さく笑った。
そして、私の手を取って、自分の頬に押し当てた。
「俺もです。先生に会えて、嬉しくて……目が熱くなってました」
二人して、泣き笑いみたいな顔をしている。
「先生、これからも……俺のこと、覚えててくれますか?」
私は首を振った。
「忘れたことなんて、一度もないわ」
その夜、彼は帰らなかった。
でも、触れ合ったのは指先だけ。
朝、玄関で見送るとき、彼が言った。
「また来ても……いいですか?」
私は微笑んで、涙を堪えた。
「いつでもおいで。先生、待ってるから」
ドアが閉まる音がして、私はそっと目を閉じた。
濡れていたのは、瞳だけ。
でも、それで十分だった。
二十年分の想いが、ようやく形になった夜だったから。
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