俺は五十二歳。
会社では「部長」、家では「お父さん」と呼ばれる、ごく普通のサラリーマンだ。
そんな俺が、今夜もホテルの一室で、三十九歳の倉橋美咲と向き合っている。
彼女は取引先の総務課で働く、いつも穏やかな笑顔の人妻だ。
出会って一年。最初は仕事の打ち合わせが終わった後の軽いお茶。
それがいつしか、月に一度か二度、こうして二人きりで話す間になった。
今夜も、彼女から「少しだけ、お話しできませんか」と連絡が来た。
夫は出張で不在。子どもはもう寝ている時間だという。
部屋に入ると、彼女はソファに腰を下ろし、膝の上で指を絡めていた。
なんだか落ち着かない様子だ。
「どうした? 珍しく緊張してるみたいだな」
俺が笑いながら言うと、彼女は小さく首を振った。
「だって……部長の前だと、いつも変になっちゃうんです」
「変?」
「声が震えるし、顔が熱くなるし……
まるで学生の頃に戻ったみたいで」
俺は隣に座った。
肩が触れない距離。
でも、それだけで空気が少し変わる。
「俺もだよ」
俺は正直に言った。
「君と会う日は、朝から落ち着かない」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「部長まで……?」
「ああ。五十二のおじさんが、こんな気持ちになるなんて自分でも笑える」
彼女はふっと笑って、でもすぐに目を伏せた。
「ねえ、部長……
触ってないのに、身体の奥が熱くなってるって、言ったら変ですか?」
その一言で、俺の胸がどきりと鳴った。
「……変じゃない」
俺はできるだけ落ち着いて答えた。
「俺も、君の声だけで胸が締めつけられる」
彼女は頬を膨らませ息を吐いた。
「夫には絶対言えない言葉なのに……
部長には、つい本音が出ちゃう」
「俺も同じだ。
妻の前では絶対言えないことを、君にだけ言える」
静かな時間が流れた。
時計の秒針だけが、こつこつと音を立てる。
「触ってないのに、こんなに熱くなるなんて……
私、どうかしてるのかもしれません」
「俺もだよ。
君の瞳を見てるだけで、胸の奥が疼くような気がする」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
目が潤んでいる。
「部長……好きです」
「俺もだ」
「でも、だめですよね。私たち」
「わかってる」
「それなのに……」
「それなのに、会いたくなる」
彼女は小さく頷いた。
「帰らなきゃいけない時間なのに、
もう少しだけ、ここにいたいって思ってしまう」
俺はそっと彼女の手を包んだ。
指先が少し冷たい。
でも、すぐに温まっていく。
「美咲さん」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。
「名前で呼ぶの……ずるいです。
胸がきゅっとなります」
「もう部長なんて呼びたくない」
彼女は微笑んで、俺の肩にそっと頭を預けた。
髪の香りがふわりと漂う。
「触ってないのに、こんなにドキドキするなんて……
私、ほんとに変ですよね」
「可愛いよ」
「五十二歳の人に可愛いって言われても」
「俺にとっては、世界で一番」
時計が十二時を回った。
そろそろ限界の時間だ。
立ち上がると、彼女は振り返って、恥ずかしそうに微笑みながら言った。
「触ってないのに、奥が熱くなってるって……
言っちゃった夜、きっと一生忘れられないわ」
俺は頷いた。
「俺もだ」
玄関で見送るとき、彼女は振り返って微笑んだ。
「また、会えますか?」
「会いたい」
「私も」
ドアが閉まる音がして、
俺は一人残された部屋で、静かに息を吐いた。
触れていないのに、
胸の奥が、いつまでも熱かった。
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