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7月, 2026の投稿を表示しています

「向日葵は太陽のほうへ」

さとみは四十三歳、二人の子供を持つ普通の主婦だった。 夫は会社員、長男は高校生、次男は中学生。毎朝弁当を作り、スーパーのパートが終われば夕飯の支度をする。特別なことは何もない日常。それでいい、とずっと思ってきた。 四十三歳、二人の子供を持つ普通の主婦 変化のきっかけは、ご近所のちょっとしたバーベキューだった。 隣の家のご主人が定年を迎えた記念に庭で開かれた小さな集まりで、さとみは夫の代わりに一人で参加した。そこに見慣れない男性がいた。 「弟が世話になっています。大塚と申します」 さとみより四、五歳上に見えた。妻と死別し、最近この町に引っ越してきたのだと後で聞かされた。穏やかな目元で、よく笑う人だった。 それから何度か、近所で顔を合わせた。ゴミ出しの朝、スーパーの駐車場、地区の防災訓練。そのたびに短い言葉を交わし、いつしかさとみは彼の声を、少しだけ待つようになっていた。 ある夕方、大塚が玄関先に向日葵の鉢を置いているのを見かけた。 「似合わないでしょう、こんなもの一人で育てて」と彼は苦笑した。 「いいえ、きれいです」 「亡くなった家内が好きで。毎年欠かさず育てていたんです」 さとみは何も言えなかった。ただ、真夏の光の中で咲く向日葵を、しばらく二人で眺めた。 帰り道、さとみはスマートフォンで向日葵の花言葉を調べた。 「あなただけを見つめる」 声には出さなかったが、胸がじんわり熱くなった。恋だとは思いたくなかった。ただ、誰かのことをこんなにも考えたのは、いつ以来だろうと思った。 夫は悪い人ではない。ただ、気づけば長い間、互いの話をきちんと聞かなくなっていた。さとみ自身も、いつのまにか「今日どうだった」と尋ねることをやめていた。 何もするつもりはない。 ただ次の朝、弁当のおかずをいつもより少しだけ丁寧に詰めながら、さとみは気づいた。誰かを意識するたびに、自分の中の何かが動き始める。それはきっと、消えていたのではなく、ずっとそこにあったのだ。 向日葵は、いつも太陽のほうへ顔を向ける。 四十三歳のさとみも、まだ何かに向かっていたかった。

枯れ木も山の賑わい、それでも花は咲く

「私なんて、もう枯れ木も山の賑わい程度でしょう」 由美子がそう零したのは、同窓会の帰り道だった。久しぶりに会った友人たちは皆、結婚し、子を持ち、それぞれの人生を歩んでいた。五十路を前にして独り身の自分は、賑やかしの一人に過ぎないと感じていた。 枯れ木も山の賑わい 「枯れ木も山の賑わい、か。ひどい言い方だな」 隣を歩く誠一が苦笑した。同窓会の幹事で、独身のまま還暦間近になった男だ。学生時代はろくに話したこともなかったが、今夜は自然と隣に座り、気づけば二人で夜道を歩いていた。 「つまらないものでも、無いよりはマシってことでしょう。私、まさにそれだなって」 「その諺、本当はもっと謙遜の意味合いが強いんだよ。枯れ木だって山の風景の一部になる、大事な存在だっていう」 誠一の言葉に、由美子は足を止めた。 「知ったかぶり」 「本当だって。俺は君と話すために今夜来たようなものだ」 思いがけない告白に、由美子の胸がとくんと鳴った。誠一はいつも寡黙で、感情を表に出さない人だった。それが今、まっすぐにこちらを見ている。 「学生時代、ずっと気になってた。でも、言えないまま時間だけが過ぎた」 「三十年以上前の話じゃない」 「三十年経っても、気になる人は気になるものらしい」 由美子は思わず笑ってしまった。若い頃なら、こんな遠回しな告白に苛立っていたかもしれない。でも今は、その不器用さこそが愛おしく感じられた。 枯れ木も山の賑わい――自分を卑下する言葉として使っていたその諺が、誠一の言葉によって全く違う意味を持ち始めていた。枯れても、朽ちても、山の一部として在り続ける。それは寂しさではなく、確かな存在の証だったのだ。 「今度、ゆっくり食事でもどう?」 誠一の誘いに、由美子は静かに頷いた。夜風が二人の間を通り抜け、遠くの山の稜線がうっすらと月明かりに浮かんでいた。 枯れ木にも、まだ花は咲く。由美子はそう、確信していた。

四十六歳の恋は、雨降って地固まる

雨降って地固まる、という諺がある。 真奈美は四十六歳になった今も、この諺の意味を実感したことがなかった。夫と別れて三年、恋愛からは遠ざかっていた。 「今日もお疲れ様でした」 「今日もお疲れ様でした」 隣に座る康介が、グラスを軽く掲げた。取引先の担当者として知り合って半年、仕事の付き合いのはずが、いつの間にか二人きりで食事をする回数が増えていた。 「康介さんって、いつも穏やかですよね。私、最近ちょっと苛立ちっぽくて」 「そうですか? 僕には、真奈美さんが誰よりも丁寧に生きてる人に見えますけど」 その言葉に、真奈美は思わず視線を落とした。丁寧に生きている――そんな風に見てくれる人が、今までいただろうか。 先週、ちょっとした行き違いがあった。真奈美が送ったメールの言葉が少しきつく伝わってしまい、康介は珍しく黙り込んだ。気まずい空気のまま数日が過ぎ、真奈美は「もうこの関係も終わりかもしれない」と覚悟していた。 けれど康介は、自分から連絡してきた。 「あの時のこと、ちゃんと話したくて」 二人は喫茶店で向き合い、誤解を一つずつ解いていった。話しているうちに、真奈美は自分がどれほど彼を大切に思っているかに気づいた。康介も同じだったらしい。 「雨降って地固まる、ですね」 康介がふと呟いた言葉に、真奈美は目を丸くした。 「知ってますか? 揉め事があった後の方が、かえって関係が強くなるっていう意味の諺」 「知ってます。でも、自分がその通りになるなんて、思ってませんでした」 真奈美は静かに笑った。若い頃の恋愛は、うまくいかないことがあれば簡単に終わってしまった。でも今は違う。ぶつかっても、そこから逃げずに向き合えば、地面はもっと固く、確かなものになる。 私たち、これからも雨、降るかもしれませんね 「私たち、これからも雨、降るかもしれませんね」 「その度に、地固めていきましょう」 康介の手が、そっと真奈美の手に重なった。若さでは測れない、深く静かな温もりだった。 四十六歳の恋は、遅すぎることなどない。むしろ、雨を知っているからこそ、次に晴れる空の美しさが分かるのだ。

蓼食う虫、恋の味を知る

「その人のどこがいいの?」 友人にそう聞かれるたび、真奈美は答えに詰まった。年下で、無口で、お世辞ひとつ言えない不器用な男。世間的に見れば、地味で華のない相手だった。 「蓼食う虫も好き好きって言うでしょ」 蓼食う虫も好き好きって言うでしょ 友人は笑いながらそう言った。人の好みは様々で、他人には理解できないものもある――そんな意味の諺だ。真奈美自身、若い頃なら気にしていたかもしれない。周りにどう見られるか、恋人が「見栄えのする人」かどうか。 でも今は違った。 隆之と出会ったのは、行きつけの定食屋だった。カウンターで隣り合わせただけの関係が、気づけば週に一度の楽しみになっていた。彼は口数が少なく、気の利いた言葉も言えない。デートらしいデートもせず、いつも同じ店で同じように味噌汁をすすっている。 「退屈じゃない? 私といて」 ある夜、真奈美がそう尋ねると、隆之は箸を止めてしばらく考えた。 「退屈より、安心の方が大事な歳になりました」 その一言に、真奈美は胸を突かれた。若い頃なら物足りないと感じたであろう静けさが、今の自分には何よりも心地よかった。刺激よりも、寄り添う温もり。派手さよりも、変わらない眼差し。 「私、あなたのそういうところが好きよ」 「蓼みたいなものですよ、僕は。苦くて、地味で」 真奈美は思わず笑った。 「知ってるなら聞くけど、蓼を好んで食べる虫は、ちゃんとその苦さの奥にある美味しさを知ってるのよ」 隆之は驚いたように真奈美を見つめ、それから少し照れたように笑った。 人が何と言おうと構わない。誰かにとっての「地味」は、自分にとっての「特別」になり得る。四十六歳になった今だからこそ、真奈美はその諺の本当の意味を噛みしめていた。 苦みの奥に、確かな甘さがある。それを知る虫だけが、蓼を美味しいと言えるのだ。