夜の静けさが、夫がいなくなった家に染み込んでいく。私の胸に広がる空虚さを、誰に話せばいいのだろう。そんな時だった、彼が訪れたのは。
「また来てくれたのね…ありがとう」
私は笑みを浮かべながらも、心の奥で震える自分を感じていた。いつもは冷静でいられるのに、彼の声を聞くと、まるで若い頃のように動揺してしまう。
「もう平気?少しずつでも元気になってきた?」
彼の温かい声が心地良い反面、胸が痛む。彼の優しさは嬉しいのに、罪悪感で胸が締め付けられるのだ。夫が亡くなってからずっと、私は一人で生きる覚悟を決めていたはずなのに…。
「ええ、大丈夫。少しずつだけどね…でも、あなたがこうして顔を出してくれるから、救われてるわ」
「そんなことないさ。君が少しでも楽になれるなら、いつでもここにいるよ」
彼の手がそっと私の手を包む。思わず息を飲んだ。人肌の温もりが、あまりにも懐かしくて、涙が滲んでくる。亡き夫に触れていた感触が、ぼんやりと思い出される。
「…いけないわ、私…こんなこと…」
「何がいけないんだい?君は一人じゃない。誰かに頼ったっていいじゃないか」
その言葉が、心の中の壁を揺らした。私が望んでいたのは、彼の言葉だったのかもしれない。禁忌と分かっていても、この感情に抗うことができない自分がいる。静寂の中、彼の腕に身を預ける私。今夜だけでも、悲しみと孤独から解き放たれたいと願った。
---
「…でも、私には…まだ彼が、夫がいる気がして」
私の言葉に、彼は静かに頷いた。彼がそっと私の手を離し、椅子に深く座り直す。その仕草に、今までの関係が壊れてしまうような不安が胸をよぎる。
「無理をする必要はないよ。君がこうして思い出を大事にしていることが、彼もきっと嬉しいと思っている」
彼の言葉は真摯で優しい。それなのに、心の奥底から湧き上がってくる感情に蓋をすることができない自分がいた。
「…ありがとう。でもね、私も自分に嘘をつき続けることが、だんだん辛くなってきたの」
そう言って彼を見つめた。彼は何も言わず、ただ私の目をじっと見返してくれる。その視線が、どこか切なく、優しい。そして、ふと気づいたのだ。彼もまた、私の心の迷いに気づいていたのだと。
「あなたが私のことを想ってくれていること、嬉しいの。だけど、それ以上に怖いの…夫への罪悪感が」
彼が私の手をもう一度そっと握りしめる。指先に伝わる彼の温もりが、胸の奥の孤独を溶かしていくような気がした。
「君は誠実な人だよ。その誠実さに、僕は心を奪われたんだ」
彼の言葉が、私の心に深く沁みた。こんな風に私のことを理解してくれる人がいることに、今までどれだけ救われてきたことか。それでも、夫への想いを完全に手放すことはできない。だからこそ、彼に心を開くことができない自分がもどかしかった。
「ねぇ…本当にいいの?私は、まだ彼を愛しているかもしれないのよ」
私は必死に自分を押さえ込みながらも、彼の目を見つめる。彼もまた迷っているように見えた。それでも、少しずつ距離を詰めてくる。
「それでも構わない。君が本当に望むなら、僕は…」
彼がそっと私の頬に手を当てる。心がざわめき、体が自然に彼に寄り添っていく。この瞬間、私の中で何かが崩れ落ちる音がした。悲しみと罪悪感と、わずかな解放感が混じり合い、彼の手の温もりが私のすべてを包み込むように感じる。
「…ありがとう。私…少しだけ、楽になれた気がする」
ふいに涙が溢れて、彼の胸に顔を埋めた。彼は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれる。その静かな優しさが、私にとってどれほど大切なものかを、改めて思い知る。今はまだ、この罪悪感から完全に解放されることはないだろう。それでも、彼のそばでなら、少しずつ前に進むことができる気がした。
---
彼の胸に顔を埋めながら、私は小さな声で呟いた。
「…あなたといると、ほっとするわ。こんなふうに素直になれるなんて、自分でも不思議で…」
「僕もだよ。君の存在が、こんなにも大切になるなんて思わなかった」
彼の指が、私の髪に触れる。その優しい仕草に、私の中で長い間抱えてきた孤独が溶かされていくのを感じた。寂しさと同時に、夫を裏切っているのではという小さな罪悪感が、心の片隅でささやいている。
「でも…こんなふうに誰かに甘えてしまうなんて、彼が知ったらどう思うかしら…」
そう言うと、彼は少しだけ微笑んで、私の手を握り直してくれた。
「きっと、君が少しでも幸せを感じられるなら、それを喜んでくれるんじゃないかな」
彼の言葉は、私の心をふっと軽くしてくれる。そうかもしれない――そう思えた瞬間、私は自然と彼に身体を預けていた。彼の腕に抱かれていると、時間がゆっくりと流れるような気がした。
「ねぇ、もう少しだけ、こうしていてもいいかしら?」
「もちろんさ。僕も、このまま君のそばにいたい」
彼の声が、私の耳元に響く。低くて温かい声が、心の奥底に響き渡り、私の不安を優しく包み込んでくれる。長い時間が経ったような気がした。ふと顔を上げると、彼の瞳がじっと私を見つめているのに気づいた。
「…あの、こんなふうにしていると、まるで若い頃に戻ったみたいね」
私が恥ずかしそうに言うと、彼は少し照れたように微笑んでくれた。
「そうだね。でも、君と一緒にいると、なんだか自然なんだ。不思議と、今が一番大事な時間に感じられる」
その言葉に、私の心が温かくなった。もう一度、彼の肩に頭を預けると、彼もそっと私の背中に手を回してくれる。彼といるこの瞬間だけでも、悲しみも、孤独も、すべてが消えてしまうような気がした。
「…ありがとう。あなたのおかげで、私、少しだけ前を向ける気がする」
「それなら良かった。君が笑顔でいてくれることが、僕にとって何よりも大切なんだ」
その言葉が、まるで夢の中のように響いた。私は静かに目を閉じ、彼のぬくもりを感じる。この温もりが、私に新たな道を示してくれている気がして、涙が再びこぼれそうになった。
---
私は、彼の温もりに浸りながら、静かに囁いた。
「こんなふうにしているとね…彼がまだ生きているんじゃないかって、ふと思ってしまうの。いけないわよね、いつまでも彼に縛られて…」
すると、彼は優しく私の髪を撫でてくれた。
「君がそんな風に思うのは、彼を深く愛していた証だよ。僕には、君の気持ちが痛いほどわかる…だから、無理をしないで」
その言葉に胸が温かくなり、私は少し照れくさくて、俯いてしまった。こんなに理解されるなんて思わなかった。ふと顔を上げると、彼の真剣なまなざしが私を見つめているのに気がついた。
「あなたのそういうところ、私、好きよ…」
気づいた時には口に出ていた。心臓がどきどきと鼓動するのを感じる。彼は少し驚いた表情を見せた後、微笑んで私の手を握り直した。
「僕も、君のそんな正直なところが好きだよ。…そして、君が新しい気持ちで前に進もうとする姿が、僕にはとても美しい」
彼の言葉に、胸がじんわりと温かくなった。その時、私は自分が新しい一歩を踏み出す準備ができているのかもしれないと感じた。彼にそっと身を寄せながら、静かに息を整えた。
「ねぇ…この気持ち、どうしたらいいのかしら」
「君の思うままにすればいい。僕は、君のそばにいるだけで十分だから」
彼の静かな声が、私の心の奥に染み込んでいく。今までの寂しさや孤独が、少しずつ溶けていくのを感じる。
「そうね…私、あなたと一緒にいると、少しだけだけど、未来を考えられる気がするわ」
「それだけで、僕は幸せだよ」
私たちは長い沈黙の中で、お互いの存在を感じていた。彼の温もりが心に触れ、私の中で何かが少しずつ解き放たれていく。静かに部屋を包む夜の静けさが、まるで私たちの新しい道を見守ってくれているように感じられた。
---
「…こんなに人と近づいたのは、彼が亡くなってから初めてよ」
私がそう言うと、彼は私の手をそっと撫でながら、深く頷いた。少し気恥ずかしくて視線を逸らすと、彼は優しい声で囁くように言った。
「君がこうして心を開いてくれること、僕にはすごく嬉しいんだ。…もっと、君を知りたい」
その一言に、胸が高鳴った。彼の視線が、静かに私の心を探るように見つめているのを感じる。こんなにも真っ直ぐに見つめられると、胸が苦しくなる。
「でもね…私、本当に前に進んでいいのかしら。彼のこと、忘れてしまうようで…」
「忘れる必要なんてないよ。彼への愛は君の一部として、ずっと心にある。それを抱きしめたまま、新しい愛を感じてもいいんじゃないかな?」
彼の言葉が、心の奥深くにまで沁み込んでいく。私の中で、何かが解き放たれるような気がした。
「そうね…あなたがそう言ってくれると、少しだけ楽になる気がするわ」
私は、そっと彼の肩に頭を預けた。彼の鼓動が静かに伝わってきて、まるで心の重荷がふっと軽くなったように感じられた。穏やかな時間が流れている。彼は私の肩にそっと手を回し、私をそっと抱きしめてくれる。
「ねぇ、あなたも寂しいの? 私をこんなに優しくしてくれるのは、あなた自身が何かを求めているからじゃないかって…」
私がぽつりと尋ねると、彼は少し驚いたように息を呑んだ。それから静かに、低く柔らかな声で答えた。
「君がそばにいると、僕も何かを取り戻している気がするんだ。君の微笑み、君の涙、全部が僕にとって特別なものに思えてくる」
彼の言葉が心に染み渡り、自然と涙がこぼれた。彼はその涙を指先でそっと拭ってくれた。
「ありがとう。私、きっとあなたのおかげで少しずつ変わっていける気がするわ」
「そうだよ。僕も君と一緒に、この先を歩いていきたいと思ってる」
彼の穏やかな眼差しが、私の心を包み込む。どこか寂しげでありながらも、そこには確かな温かさがあった。その瞬間、私たちの間にあった壁が崩れ、今まで以上に彼を近くに感じることができた。
「これから先、どうなるかわからないけれど…あなたとなら、きっと大丈夫ね」
私は彼の胸に頭を預け、静かな夜の中で彼の腕に抱かれる。夜の闇が優しく私たちを包み込み、静かに新しい愛が芽生えていくのを感じながら、私は彼と共に未来を見つめ始めた。
コメント
コメントを投稿