「ねえ、私、あなたに言わなきゃいけないことがあるの。」
その声は震えていた。夜更け、リビングの薄暗い照明の中、彼が私の隣に座っている。娘の夫――いや、今は私の「彼」と呼ぶべきかもしれない。
「こんなこと、誰にも言えないのよ。でも、ずっと胸に溜めておくのはもう無理で……」
私は湯気の立つカップを両手で包み込みながら、彼の顔を見つめた。彼はただ静かにうなずき、私の言葉を待っていた。
---
すべてが始まったのは、一年前のことだった。夫が亡くなり、家に重たい静寂が広がった。娘夫婦が気を遣って、毎週顔を出してくれるようになったのはありがたかったけれど、正直、私は孤独だった。
それでも、あの――息子が――優しく接してくれるたび、私は少しずつ救われていったの。彼は気遣いが上手で、何気ない会話や、家事の手伝いまで、私の支えになってくれた。娘には申し訳ないけれど、彼の笑顔を見るだけで、どれほど心が温かくなったことか。
でも、そのうち私は気づいてしまった。彼に惹かれている自分に。
初めは「家族だから」と自分に言い聞かせていた。でもある日、彼が台所でエプロンを外している姿に見惚れてしまったとき、私は心の中で何かが壊れる音を聞いた。
---
「あのとき、私、本当にどうかしてたの。あなたが優しすぎるから、つい……」
私は視線をカップに落とし、声を絞り出すように話した。
「でも、あなたも悪かったのよ。私が手を伸ばしたとき、拒まなかったでしょう？」
彼は何も言わなかった。ただ静かに息を吐き、私の手をそっと握り返してきた。その温もりが、さらに私を罪の深みに引きずり込む。
---
夜の台所で、彼と二人きりになることが増えた。娘が眠った後、彼と話す時間だけが、私の孤独を埋めてくれた。ある晩、ふとした拍子に彼の手に触れてしまった。謝ろうとしたけれど、彼は笑って言った。
「お義母さん、いいんですよ。寂しいんでしょう？」
その言葉に胸が締め付けられる思いだった。どうして彼にはこんなにも見透かされてしまうのだろう。
その後、私は自分を抑えることができなくなった。彼が近づくたび、気持ちが揺さぶられた。ついにある日、私は彼を抱き寄せてしまった。そして、彼もそれを拒まなかった。
---
「後悔してるの？」
彼がぽつりとつぶやいた。その言葉に、私は答えられなかった。後悔しているのか、それとも満たされた気持ちを捨てたくないのか、自分でもわからない。
「ただ、どうしたらいいかわからないのよ……」
私は涙を拭いながら、彼に背を向けた。窓の外には月明かりが静かに差し込み、影を伸ばしていた。
「こんなこと、続けられるはずないわ。いつか娘に知られる。それに、あなたの人生を壊すことになる。」
彼は私の肩に手を置き、優しい声で答えた。
「お義母さん、僕だって同じ気持ちです。でも、僕もあなたを――」
その言葉に続く声は聞こえなかった。ただ、心の中で何かが軋む音がした。
---
**罪と後悔の狭間に揺れる私の心。満たされるたび、傷つく。こんな関係に未来があるはずがないのに、どうして私は手放せないのだろう。**
---
リビングの時計が静かに秒針を刻む音が、部屋全体に響いていた。私は震える指でカップを置き、ふっと息を吐いた。彼が私の隣で微動だにせず座っている。まるで、この沈黙が答えを出してくれるとでも言うように。
「ねえ、私、あなたに聞きたいの。」
声が少し掠れていた。「どうしてあの時、私を拒まなかったの？」
彼は驚いたように眉を動かし、少し困った表情を浮かべた。
「お義母さん…いや、由美子さん。」彼は私の名前を呼んだ。その響きが胸に突き刺さるようだった。
「僕も、止められなかったんです。ただ、それだけです。」
「それだけ？」私は笑った。でもそれは、どこか自嘲の混じった笑いだった。
「じゃあ、私が全部悪いってことね。」
「違います。」彼は急に声を荒げた。静かな夜の中でその声が大きく響いた。
「違いますよ。僕だって…僕だって、あなたに救われてるんです。お義母さんのこと、ただの義理の母親としてじゃなく…」
言葉を詰まらせた彼の顔を見て、私は初めて、彼も私と同じように葛藤していることに気づいた。
---
雨の音が窓を叩き始めた。その音に紛れて、私たちの過去が流れ出す。あの夜、初めて二人きりで飲んだワインの味。酔いのせいにして交わした秘密の約束。触れた肌の温かさ。
「あなたと一緒にいると、私、若返った気分になるのよ。」
ぽつりと、私は呟いた。
「でも、それがいけないのよね。私みたいな女があなたみたいな若い人に…。」
彼は私の手を握った。その手は、温かくて、少しだけ力強かった。
「そんなふうに言わないでください。僕にとって、あなたは…。」
また、言葉が途切れる。その先を言えないのは、彼も自分の感情の重さを理解しているからだろう。
---
カーテン越しに、雨の中にぼんやりと光る街灯が見える。その灯りを見つめながら、私は静かに言った。
「ねえ、いつかこの関係が壊れる日が来たら、あなたはどうするの？」
「壊れないようにすればいい。」彼はそう答えた。
「でも、壊れるのよ。絶対に。」
私は静かに微笑んだ。その微笑みには、諦めと少しの未練が混ざっていた。
「それでも、僕は…」彼が私の顔を見つめた。「お義母さんと過ごしたこの時間を、後悔したくない。」
その言葉に、私の胸は締め付けられた。どうして、こんなにも真っ直ぐに私を見つめるのだろう。その瞳が私に向けられるたび、罪悪感と同時に、確かな愛情を感じてしまう。
---
雨音が静かに響く中、私はそっと彼に微笑みかけた。そして、自分に言い聞かせるように言った。
「ねえ、せめて、私たちの関係が終わるその日まで、幸せでいさせてくれる？」
彼は何も言わず、ただ力強く頷いた。その目には迷いがなかった。
部屋の明かりを消したとき、窓の外の雨が止み始めていた。それが、私たちに訪れるわずかな安らぎのように思えた。
未来がどうなるのかはわからない。ただ、今だけは、この罪と愛の狭間で彼の温もりを感じていたかった。
---
夜が深くなるほど、家の中の静けさは重く感じられる。娘夫婦が一緒に住んでいた頃には、こんな夜の孤独など思いもよらなかった。リビングの薄暗い光の中で、彼の目がまた私を見つめている。それが、どれほど私を不安定にさせるか、彼は知っているのだろうか。
「由美子さん、僕たちは…これからどうすればいいんでしょうか？」
彼がぽつりと呟く。その声には、戸惑いとほんの少しの希望が混ざっている。
「どうするって、あなた、何を言ってるの？」
私は笑いながら首を振った。けれど、その笑みは薄っぺらいものだった。
「こんな関係、続けられるわけないわよ。私たち、どこかで終わらせなきゃいけないのよ。」
「でも、僕は…」
彼の声が詰まる。その後に続く言葉を聞くのが怖かった。彼が何を言いたいのかは分かっている。それでも、それを聞けば、私は自分の中のわずかな理性を失ってしまうだろう。
---
窓の外では、夜風がわずかにカーテンを揺らしていた。その音に、私たちはしばらく言葉を失ったまま座り続けた。彼の手が私の膝の上にそっと置かれたとき、私はその温もりに驚き、同時に自分を責めた。
「あなた、そんな顔しないで。」
私は彼の手を払いのけようとしたが、彼は力強く私の手を掴んだ。そのまま、真剣な目で私を見つめて言った。
「僕にとって、由美子さんは大切な人なんです。」
「やめて。」私は目をそらした。「そんなこと言われたら、私、もっと…」
「もっと、何ですか？」彼が問い詰めるように聞き返す。
「もっと、あなたを好きになってしまうじゃない。」
言ってしまった。自分の胸の奥底に押し込めていた言葉を、彼の前で吐き出してしまった。その瞬間、私は涙が止められなくなった。
---
「由美子さん。」彼は私を抱き寄せた。その腕の中で私は泣き続けた。彼のシャツにしがみつきながら、何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
「僕が悪いんです。全部。」
彼の声が耳元で響く。その言葉が、どれほど私の心を軽くするか、彼は知らないだろう。
「でも、僕にとって、あなたがいなかったら、今の僕はここにいなかった。」
その言葉に、私は顔を上げた。彼の目には、本物の涙が浮かんでいた。
---
私たちはその夜、言葉を尽くした。これからどうするべきか、どう生きるべきかを話し合った。しかし、どれだけ話しても明確な答えなど出ない。それでも、彼と向き合い続ける時間が、私には救いだった。
「ねえ、せめて、今夜だけは…」
私は彼の耳元で囁いた。「今夜だけは、私を離さないで。」
彼は何も言わず、ただ私を強く抱きしめた。夜の静寂の中で、私たちの心が一つになった気がした。そして、その一瞬が永遠のように感じられた。
---
夜明けが近づき、窓の外にわずかな光が射し込んできた。私は彼の胸に頭を預けながら、静かに言った。
「これで終わりにしましょう。」
「本当にそれでいいんですか？」
彼の問いかけに、私は小さく頷いた。「それが一番いいのよ、あなたのためにも。」
朝の空気が少しずつ家の中に入り込んでくる。私は自分の罪と共に、その空気を深く吸い込んだ。
「ありがとう、私を愛してくれて。」
そう告げたとき、私の中で何かが静かに壊れ、そして癒されていくのを感じた。
---
罪と愛の狭間で揺れ動いた二人の夜は、夜明けと共に消えていった。
---
朝の陽射しが窓から差し込む頃には、リビングの空気が冷たく感じられた。私は彼の肩にもたれながら、静かに目を閉じていた。外では鳥の声が聞こえる。その清々しい音が、どこか現実を突きつけてくるようで胸が苦しい。
「ねえ、そろそろ行かないと。」
私は彼の腕を軽く叩いた。
「このままじゃ、娘たちが帰ってきたら大変なことになるわ。」
彼はため息をつきながら私を見つめた。あのまっすぐな瞳に、またしても私は心を揺さぶられる。
「僕には、もう何が正しいのか分かりません。」
「分からないのは、私もよ。」私は苦笑いを浮かべた。「でも、これだけは分かってるの。私たちがこのままではいけないってこと。」
---
私は席を立ち、カーテンを閉めた。光が遮られると、部屋の中が少しだけ落ち着きを取り戻したように感じる。
「ねえ、あなたはまだ若いのよ。」私は彼の顔を見ないまま言った。「未来があるの。私に囚われてちゃダメ。」
彼は立ち上がり、私の背中に回った。その手が私の肩に触れる。
「でも、僕にとって、由美子さんは…」
「それ以上は言わないで。」私は彼を制した。「言葉にしたら、もう戻れなくなるから。」
---
外の庭では風が木々を揺らしている。その音が妙に耳に残る。彼は黙ったまま、私の隣に立っていた。その沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。
「もし…もし私たちが違う立場だったら、もっと自由だったら…どうだったと思う？」
彼は少し考え込むように目を伏せ、それから静かに答えた。
「僕は、もっと早くあなたに出会いたかった。もっと正しい形で。」
その言葉に胸が締め付けられるようだった。私は震える手で彼の頬に触れた。
「そんなこと言われたら、また私…」
「また、何ですか？」彼が優しく問いかける。
「また、あなたを愛してしまうじゃない。」
その瞬間、彼が私を抱き寄せた。温かな彼の腕の中で、私はただ目を閉じた。
---
それでも、私は知っている。朝日が完全に昇る頃には、私たちは元の立場に戻らなければならないということを。
「ねえ、これで本当に終わりにしましょう。」
私の言葉に、彼はしばらく黙っていた。それから、深く頷いた。
「分かりました。でも、最後に一つだけ。」
彼は私の手を取って言った。
「僕はこれからも、あなたを大切に思い続けます。それだけは信じてください。」
私は小さく笑い、手を握り返した。
「ありがとう。その言葉だけで十分よ。」
---
彼が家を出ていく音が、玄関から聞こえた。私はリビングに戻り、彼が座っていた場所を見つめる。そこには、彼の温もりがまだ残っているような気がした。
「これで本当に良かったのよね。」
自分に言い聞かせるように呟く。しかし、胸の奥で渦巻く後悔と罪悪感は、そう簡単に消えるものではなかった。
目を閉じれば、彼の優しい笑顔が浮かぶ。私はその笑顔に心の中で別れを告げた。そして、新しい朝を迎えるために、ゆっくりとカーテンを開けた。
---
物語は、罪と愛の余韻を残したまま、ひっそりと幕を閉じた。
コメント
コメントを投稿