朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかく照らしていた。キッチンからは夫がコーヒーを淹れる音が聞こえてくる。私も一日の始まりに向けて、洗面所で顔を洗おうと足を運んだ。鏡の前には、昨日夜に使ったばかりの私の歯ブラシが立てかけられている。けれど、何かが違う。
「あれ? なんか毛先が広がってる?」
そう呟きながら手に取った瞬間、私は息を呑んだ。毛先には微かに湿り気が残り、使った形跡が明らかだった。
「また……なの?」
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。義父さん、お願いだからやめてください。私の歯ブラシを使うのは。
リビングに戻ると、義父が朝食のテーブルに座って新聞を広げていた。何事もなかったかのような穏やかな表情だ。その姿を見て、どう切り出せばいいのか迷ってしまう。
「お義父さん、あの……」
言葉が詰まる。何度も注意したけど、どうしても直らない。わざとなのか、ただの勘違いなのか、それすら確かめるのが怖い。
「ん? なんだい?」
義父さんは私に目を向けた。その瞳には悪びれる様子など一切ない。むしろ、私が何かを責めるのは間違いなんじゃないかと錯覚しそうなほど、穏やかだった。
「いや、なんでもないです。」
結局、いつものように言い出せなかった。台所に戻り、夫が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、自分の小ささに嫌気がさした。
その日の夕方、義母がふと話しかけてきた。
「最近、あの人、物忘れがひどくてね。」
「え、そうなんですか?」
「この前なんか、自分の歯ブラシをどこに置いたか忘れちゃってね。探すのが面倒だったのか、適当に目に入った歯ブラシを使ったみたいで……」
その一言で、私はすべてを理解した。義父さんは悪気があってやっているわけではない。けれど、それで納得できるわけでもない。
その夜、夫と二人で話し合った。
「ねえ、あなた。義父さんのことなんだけど……」
「また歯ブラシの件?」
「そう。やっぱり衛生的に良くないし、どうにかしないと。」
夫は困ったように頭をかきながら答えた。
「わかった。父さんにちゃんと話すよ。でも、少しずつでいいか?」
「うん。それでいい。」
私はそれ以上は何も言わなかった。少しでも前に進めば、それでいい。
翌朝、私は新しい歯ブラシを買ってきた。それを洗面所の引き出しに隠し、代わりに義父さんが間違えてもいいような古い歯ブラシを目立つ場所に置いておいた。
それから数日、特に問題は起きなかった。義父さんは相変わらず新聞を読みながら穏やかに朝食をとり、私は新しい歯ブラシで安心して歯を磨いた。
けれど、ある日義父さんが私を呼び止めた。
「おい、お前さん。」
「はい、なんですか?」
「最近、新しい歯ブラシを買ったのかい?」
ドキッとした。まさか気づかれた? いや、でも、どうして?
「え、ええ、そうですけど……」
「そっか。お前さんの歯ブラシは使いやすかったんだけどな。」
その一言に、私は呆然と立ち尽くした。義父さんはわざとやっていたのか、それともただの感想なのか。何を信じればいいのかわからない。
その日の夜、私は泣きながら夫にすべてを話した。
「もう無理……どうしたらいいのかわからない。」
夫は静かに私の肩を抱きしめ、「ごめんな」と呟いた。それだけで、少しだけ心が軽くなった気がした。
翌朝、私は義父さんに直接話す決心をした。今度こそ、この問題に終止符を打つために。
洗面所から戻った私は義父さんの隣に座った。義母は台所で片付けをしている。夫は仕事のためにもう家を出ていた。二人きりのリビングは、いつもより広く感じた。
「お義父さん、ちょっとお話ししてもいいですか?」
私の声は少し震えていた。でも、その震えを隠すように両手を膝の上で握りしめた。
「なんだい?」
義父さんは新聞をたたみ、私に目を向けた。その目には、やはり悪気のない穏やかさが漂っている。それが逆に辛かった。
「実は……最近、私の歯ブラシが間違って使われているみたいで……。」
すると、義父さんは驚いたように目を見開いた。
「お前さんの歯ブラシだったのかい?」
「ええ。でも、もし間違えていたなら大丈夫です。ただ……これからは気をつけていただけたらと思って。」
義父さんはしばらく黙っていた。そして、ぽつりと口を開いた。
「すまんね。確かに自分のを見つけるのが面倒で……でも、お前さんのだとは思わなかった。」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。でも同時に、どうしても込み上げる感情を抑えきれなかった。
「お義父さん、私……自分の歯ブラシを誰かに使われるのがすごく嫌なんです。だから、これからは間違えないように気をつけてください。」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、私は言葉を続けた。義父さんは深く頷き、「わかった」と答えた。その表情は、どこか申し訳なさそうで、それでも温かかった。
その日以来、歯ブラシの問題は起きなくなった。私の心にはまだ小さな棘が残っているけれど、それでも義父さんと向き合えたことに、少しだけ誇りを感じている。
数週間後、私は義父の誕生日に、名入りの歯ブラシセットをプレゼントすることにした。箱を開けた義父さんは、少し驚いた顔をした後、微笑んで言った。
「お前さん、気が利くなあ。」
その笑顔を見て、私は少しだけ胸をなでおろした。これでもう、同じ問題は起きないはずだ。
けれどその夜、義母がぽつりと言った。
「最近、あなたのお義父さん、新しい歯ブラシをとても大事にしてるのよ。でも……」
「でも?」
「たまに、私の歯ブラシと間違えて使っちゃうの。」
その一言に、私は返す言葉を失った。笑うべきなのか、怒るべきなのか、ただ呆然と天井を見上げることしかできなかった。
それでも私の心には少しだけ余裕が生まれていた。洗面所に立ち、ふと鏡を見る。そこに映る自分の顔には、疲れの中にも少しだけ微笑みが浮かんでいた。
「義父さん、これからもよろしくお願いしますね。」
小さく呟きながら、新しい一日の始まりを迎えた。
その日、私は仕事に向かうため、少し早めに家を出た。外は春の気配が感じられる柔らかな陽射しに包まれていた。道端の桜が蕾を膨らませ、今にも咲きそうな様子だ。
会社に着くと、同僚の美智子さんが私に声をかけてきた。
「最近、元気そうね。何かいいことあった?」
「いや、特にないんだけどね。」
そう答えながらも、どこか肩の力が抜けた自分を感じていた。義父とのあのやりとりが、私の中で何かを変えたのかもしれない。
昼休み、美智子さんとカフェで話していると、ふと彼女が笑いながら言った。
「うちもね、義母が私のコップを間違えて使っちゃうのよ。でも、なんだか憎めなくてね。」
その言葉に、私は思わず微笑んだ。
「わかる気がする。家族って、そんなものなのかもね。」
午後の仕事が始まると、次々にやってくる電話やメールに追われた。けれど、どこか心の中に小さな余裕がある。それが不思議で、少し嬉しかった。
帰り道、再び桜の木の下を通ると、一輪の花が咲いているのを見つけた。
「もう春か……。」
小さく呟きながら、私は家路を急いだ。義父さん、今日も元気にしているかな。そんなことを考えながら、心の中にはほんの少しの温かさが広がっていた。
義お父さんはワザと私の歯ブラシとタオルを間違ったふりをして使っていたのです。
最初は気のせいかと思ったの。でも、歯ブラシがいつも置いてある場所が微妙にズレてたり、タオルの畳み方が違ってたりするのを何度も見つけるうちに、「あれ?」って思い始めたのよ。ある日、ふと気になって、こっそり洗面所にカメラを仕掛けたの。
次の日の朝、録画を確認してみると、義お父さんが私の歯ブラシを手に取って、自分の歯を磨いている姿が映っていたのよ!しかも、それが終わったら私のタオルで顔を拭いてるのよ。驚きと怒りと、なんだかよくわからない気持ちが胸の中でぐるぐるしてた。
「これ、どういうこと?」と問い詰めようかと思ったけど、言葉が出なかったの。私がこのことを知っているって気づかれたら、もっとややこしいことになりそうで怖かったのよ。でも、どうしてこんなことをするのか知りたい気持ちも抑えられなくて。
ある夜、夕飯の片付けを終えた後、リビングで義お父さんと二人きりになったときに、思い切って切り出したの。
「お義父さん、私のタオルと歯ブラシ、なんで使ってるんですか?」
彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐににやりと笑って言ったの。
「バレたか。お前のことが好きなんだよ。なんて冗談だよ、悪いな。ちょっとイタズラが過ぎたかもしれん。」
その言葉に私は絶句して、どう反応していいかわからなかった。ただの冗談にしては、彼の目が真剣すぎたのよ。
それから私は、洗面所の鍵を交換して、自分の歯ブラシとタオルを別の場所に隠すことにしたの。でも、その夜、眠れずに何度もあの笑みを思い出してしまった。
洗面所の鍵を交換して、歯ブラシやタオルを隠すことで安心できると思ってた。でも、心のどこかに小さな違和感が残ったままだったのよ。あの義お父さんの笑みが、どうしても頭から離れなくて。
数日後、朝のリビングで義お父さんと顔を合わせたとき、妙な沈黙が流れたの。彼は普段通り新聞を広げてるんだけど、なんとなくいつもより落ち着きがないように見えたの。
「おはようございます。」って私が声をかけると、彼は一瞬顔を上げてからぎこちなく返事をした。
「おう、早いな。」
その様子がかえって気になって、私は思い切って席を義お父さんの向かい側に移したの。
「この前のことなんですけど…本当に冗談だったんですか?」
自分でも驚くほど、ストレートに聞いてしまったの。彼は新聞をそっとたたんで、私をじっと見つめたわ。その目はどこか申し訳なさそうで、でも、何かを言いたそうでもあった。
「冗談って言ったけどな…ほんとは、少し本気だったのかもしれない。」
その言葉に私は心臓がドキリとしたの。信じたくないけど、どこかで薄々感じていたことが現実になってしまったような感覚。でも、義お父さんはすぐに続けたの。
「ただ、勘違いするなよ。お前のことを変な目で見てるわけじゃない。ただ…亡くなった妻に似てるんだ、お前は。仕草や笑顔、何もかもがな。」
彼の声が少し震えていたのを覚えてる。そこでようやく気づいたの。義お父さんがしていたことは、愛情でも悪意でもなく、ただの寂しさからくる行動だったんだって。
「でも、そんなことしてごめんな。本当に。もう二度としないから、安心してくれ。」
そう言って頭を下げる彼を見て、私はどう答えればいいのかわからなかった。ただ、今まで感じていた怒りや困惑が少し和らいでいくのを感じたの。
「わかりました。これからは気をつけてくださいね。」
そう言うのが精一杯だったけど、義お父さんは少しホッとした顔をしてくれた。
それから、私たちは何事もなかったかのように日々を過ごしているけど、時折義お父さんが私に向ける視線には、まだどこかに寂しさの影が見えるの。
もしかしたら、私にできることがあるのかもしれない。そう思いながら、どうすればいいのかを今も考えているのよ。
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