営業車の窓から見える夕暮れが、やけに胸にしみた。今日の商談も、手応えはなかった。毎日毎日、目標数字に追われて走り回る日々。もう何年こんな生活を続けているんだろうかって、ふと思った。
コンビニで買った安いサンドイッチをかじりながら、次の訪問先の資料を見直していたとき、スマホが振動して、画面に表示された名前を見た瞬間、背筋がピンとした。
奥さん、こんばんは。今どこにおるんや?
その声、関西弁のなじみあるイントネーション。顧客の田中さんだった。
あ、田中さん、こんばんは。今日は会社の近くにおりますけど、どうされました?
いや、ちょっと頼みたいことがあってな。いまから時間あるか?
頼みたいこと。嫌な予感が頭をかすめたけど、それを振り払うように笑顔で答えた。
ええ、もちろんです。どちらへ伺いましょうか?
田中さんの指定した喫茶店は、よくドラマに出てくるような、少し薄暗い雰囲気のレトロな店だった。カランコロンと鳴る扉の音が、妙に耳に残った。
よお来てくれたな。まあ、座りぃや。
田中さんはすでに席に着いていて、私を見てにこっと笑った。その笑顔、どこかぎこちなくて、嫌な空気をまとっているように感じた。
ご連絡いただきましてありがとうございます、なんか恐縮ですわ。
田中さんは煙草に火をつけて、一口吸ったあと、じっと私の目を見てきた。
奥さんな、今の仕事、しんどいやろ?
その言葉に、一瞬、息が詰まった。なんでそんなこと聞くんですか?と聞き返したけど、田中さんはまっすぐな目で続けた。
数字に追われて、上からもいろいろ言われるやろ。そんなん、見てたら分かるわ。
そらまあ、大変なこともありますけど、それが仕事やと思ってますし...
でもな、奥さんもうここで止めたってもええんやで。
その言葉の重さに、心が揺れた。ほんまにしんどい。この仕事から逃げたい。でも逃げたら、自分には何も残らないんじゃないかって。
田中さん、どういう意味でおっしゃってるんですか?
声が震えたのが、自分でも分かった。
簡単な話や。俺が奥さんのノルマ、一気にクリアしたる。その代わり...
田中さんはテーブルに肘をついて、身を乗り出してきた。
今夜、俺と一緒におってくれへんか?
その瞬間、時が止まったみたいに感じた。頭の中で何かが弾ける音がした。まさか、そんなことを言われるなんて。
田中さん、何を言うてはるんですか。それ、冗談ですよね?
冗談やない。本気や。奥さんのこと、ずっと見てきて、俺なりに応援してきたつもりや。でも今日、ほんまにしんどそうな顔してたから、助けたいって思ったんや。
助けたいって...そんな助け方、私にはいりませんわ。
田中さんは一瞬、言葉を飲み込んだように見えたけど、次の瞬間にはまた、目に妙な熱を帯びた視線を浮かべた。
いや、奥さんには分かってるはずや。俺の言うてる意味が。そんだけ頑張ってるのに、会社は何も助けてくれへんやろ?俺やったら、奥さんを助けられるんやで。
田中さん、それは...違います。私は、自分の力でなんとかしたいんです。
ほんまにそう思ってるんか? 俺の提案、よう考えてみてや。何も悪いことやない。奥さんも楽になる、俺もええ時間を過ごせる。お互いに得しかない話や。
田中さんの言葉がどんどん強く、逃げ場を奪うように感じられた。
田中さん、それ以上おっしゃられるのは困ります。私は...帰らせていただきます。
立ち上がろうとした私の手首を、田中さんがぐっと掴んだ。
待てや。俺がこんなに真剣に話してるのに、逃げるんか?
その力強さと鋭い視線に、心臓が早鐘のように鳴った。でも、私は逃げたかった。
田中さん、手を離してください。これ以上は無理です。
無理なんてことあらへん。奥さんが折れたら、全部解決や。ほんまに、考え直してくれんか?
その言葉に、私は耐えきれず、はっきりと言い返した。
田中さん、それ以上おっしゃるなら、私は会社に報告せざるを得ません。どうか、これ以上はやめてください。
彼の手が緩み、私は素早くその場を立ち去った。振り返ると、田中さんは深くため息をついているようだったが、その表情を見る余裕もなかった。
喫茶店の扉を押し出した瞬間、冷たい夜風が頬を叩き、涙が一筋流れた。
その夜、家に帰っても心がざわざわして眠れなかった。田中さんのあの目、あの言葉が何度も頭の中をリピートしてた。自分で断れたっていう安堵感と、でも何か背後に得体の知れないものが迫ってくるような怖さが入り混じって…なんとも言えない気分だった。
翌日の朝、いつも通り仕事を始めた。けど、妙に空気が重い。何度も携帯を確認したけど、田中さんからの連絡は一切なかった。それが逆に怖かった。これで終わりにできたのか、それとも何か次があるのか…。
昼過ぎ、突然スマホに通知が来た。「田中」という名前を見た瞬間、息が詰まった。けど、着信じゃなくてメッセージだった。恐る恐る開くと、そこには「今夜また会おう」という短い一文と、知らない住所が書かれていた。こんなメッセージ、無視するのが当たり前だって頭ではわかってた。でも…身体が勝手に硬直して動けなかった。
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