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帰らなくちゃいけない。私には家庭がある。「黒いワンピースの女」


私は、黒いワンピースを選んだの。今日は特別な日だから。彼に会う日は、いつもこの服。彼が最初に「似合うね」と言ってくれたのが、この黒いワンピースだった。


 密通そんな言葉が頭をよぎるたびに、胸が痛む。でもね、心が求めるの。こんな歳になって、まるで恋する少女みたいに。夫の前では忘れていた“女”としての自分を、彼といると取り戻せるの。


 今日もホテルの部屋で、彼の腕の中にいた。息が詰まりそうなほど幸せで、でも、同じくらい罪悪感が押し寄せてくる。彼が「帰らないで」と囁いたとき、私は微笑んで、そっと彼の頬を撫でた。でも、帰らなくちゃいけない。私には家庭がある。


 帰り道、車の窓に映る自分の顔を見て思った。これが本当に私? しあわせなの? それとも……。


 家のドアを開けると、いつもの静かなリビングが迎えてくれる。夫はソファでテレビを見ている。振り向いた彼の目が、少し寂しげに見えたのは気のせいかしら。


 「遅かったな」


 「うん、ちょっとね」


 黒いワンピースを脱ぎながら、私は心の中で何度も問いかける。この恋に終わりはあるの? それとも……。


 鏡の中の私は、ただ黙って、じっと私を見つめていた。


 翌朝、夫の目を盗んでスマートフォンを手に取る。彼からのメッセージを待っている自分に気づき、苦笑する。でも、画面には何も表示されていなかった。


 不安が胸を締め付ける。昨夜、私が帰るとき、彼は何も言わなかった。いつもなら、「またすぐに会おう」って言うのに。


 午前中、何度かスマートフォンをチェックしたけれど、通知はない。焦りと寂しさが入り混じる。もしかして、終わりが近づいているの?


 そんなとき、ふとリビングから夫の声が聞こえた。「今日、夕飯一緒に食べないか?」


 私は驚いて顔を上げた。夫がそんなことを言うのは久しぶりだった。


 「うん……そうね」


 夫の瞳の奥に、何かを探るような光が宿っている気がした。私は無意識にスマートフォンを裏返し、黒いワンピースをクローゼットの奥へとしまい込んだ。


 夕食の支度をしながら、私は夫の様子を盗み見ていた。いつもと変わらない穏やかな口調。でも、なぜか彼の目の奥が読めない。食卓につき、いつものように会話を交わすけれど、どこかぎこちない。


 「最近、元気ないんじゃないか?」


 夫の言葉に、私は箸を止めた。心臓が跳ねる。


 「そんなことないわ」


 取り繕うように笑ったけれど、夫はじっと私を見つめていた。そのまなざしが、胸を締め付ける。


 その夜、ベッドに入っても眠れなかった。彼からのメッセージはまだ来ない。もしかして、私たちは本当に終わるの? それとも、何かが変わり始めているの?


 ぼんやりと天井を見つめながら、私は答えのない問いに苛まれ続けた。


 翌日、スマートフォンが震えた。息をのんで画面を覗き込む。


 「しばらく会えない」


 たったそれだけの短いメッセージ。


 体の力が抜けて、スマートフォンを握る手が震えた。終わりなの? 彼の気持ちはもう離れてしまったの?


 その夜、夫が私の肩を優しく抱いた。「何か悩みがあるなら、話してほしい」


 私は何も言えなかった。ただ、静かに目を閉じた。


 黒いワンピースは、もう着ることはないのかもしれないそんな思いが、心の奥にじんわりと広がっていった。


 それから数日、私はただ時間に流されるように過ごした。夫は何も聞かないまま、そばにいてくれる。それが逆に、胸を締め付けた。


 ある日、クローゼットを開けたとき、黒いワンピースが目に入った。震える指でそれを撫で、私はふと呟いた。


 「さよなら、私の恋……」


 その夜、夫の腕の中で、私は久しぶりに涙を流した。


 それから数週間が過ぎた頃、夫がふと私に言った。「今度の週末、二人で出かけないか?」


 驚きと戸惑いが入り混じる。こんな誘いは何年ぶりだろう。


 「どこへ?」


 「海を見に行こう」


 彼の言葉に、私は小さく頷いた。


 もしかしたら、私たちはまたやり直せるのかもしれない。


 クローゼットの奥にしまった黒いワンピースをそっと撫で、私は新しい服を選び始めた。


 週末、海沿いの道を歩く私たちの影は、寄せては返す波のように、静かに寄り添っていた。



 夜の帳が下りる頃、私は黒いワンピースを纏い、そっと家を出た。昼間の私とは違う、誰にも見せられない顔を抱えて、あの人のもとへ向かう。愛してはいけないと分かっている。それでも、心が彼を求める。


 ──あなたに会いたい。


 背中に絡みつくような罪悪感を振り払うように、ハイヒールの音を響かせながら歩く。足取りは軽いはずなのに、心は重たい。背徳の恋は甘く、そして苦い。


 彼の腕の中にいるときだけ、私は私を忘れられる。


 日々の生活に埋もれたまま、妻として、母として、良き女であり続ける私。けれど、そんな私の奥底には、女としての私がくすぶっていた。気づかないふりをしていた。でも、彼と出会ったあの日、私は思い出してしまったの。


 ──ああ、私もまだ恋をするのだと。


 彼の視線が私を女にする。彼の手が私の心を解き放つ。肌に触れるたびに、私は自分が生きていることを実感する。


 でも、わかっているの。これは泡沫の夢。永遠には続かない関係。彼には彼の人生があり、私には私の現実がある。


 「いつまで、こうしていられるのかしらね」


 ベッドの上で囁いた私の言葉に、彼は何も言わなかった。ただ、強く抱きしめてくれた。その腕の温もりが嬉しくて、でも哀しくて、私は目を閉じた。


 帰り道、夜風が火照った肌を冷やしていく。


 ──愛している。けれど、いずれ終わりが来る。


 それでも、私はまたこの黒いワンピースを纏い、彼のもとへ行くのだろう。


 罪を背負いながら、恋の名のもとに。


 数日後、いつもの待ち合わせ場所に向かうと、彼はそこにはいなかった。時間を間違えたのかとスマホを確認する。しかし、何度メッセージを送っても、既読にはならない。


 ──まさか。


 胸がざわめく。不安が首をもたげ、冷たい汗が背中を伝う。


 ふと、彼の姿を見つけた。けれど、その隣には見知らぬ女性が寄り添っていた。笑顔を交わし、彼は優しく彼女の肩を抱く。


 心臓が軋む音がした。足がすくみ、その場を動けなくなる。


 ──ああ、終わりが来たのね。


 私はそっと踵を返した。黒いワンピースが闇に溶ける。


 歩きながら、涙が頬を伝う。


 もう、彼のもとへは行かない。


 それでも、胸の奥にぽつんと残るのは、消えることのない恋の名残だった。


 その夜、鏡の前でワンピースを脱ぎ捨てた。黒い布が床に落ちる。まるで、自分の過去を剥ぎ取るように。


 新しい朝が来る。


 私は白いブラウスに袖を通し、スカートの裾を整える。息を吸い込んで、背筋を伸ばした。


 ──さようなら、あの人。


 これからは、私の人生を生きるために、新しい男を見つける。





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