彼女と最初に出会ったのは、大学の休暇中で地元の親友を訪ねたときだった。彼女、つまり親友の母親は、その頃まだ四十代半ばで、艶やかさを失うことのない女性だった。
黒髪を後ろでまとめた姿はどこか和やかでありながら凛とした雰囲気を漂わせていた。その初対面の際、俺は彼女から目を離せなくなった。それが「好奇心」という軽いものだったのか、あるいはもっと踏み込んだ感情の芽生えだったのかはわからなかった。ただ、瞬間的に何かが心の奥で動いたことは確かだった。
最初の頃はただの挨拶にすぎなかった。「久しぶりね」「大きくなったわね」という親しい友人の母親らしい言葉を交わす程度。それ以上のものを期待する理由もなかったし、すべては穏やかな日常の一部にとどまるはずだった。
けれど、親友が家を空けたある夕方、彼女と二人だけになる機会が訪れた。親友が急な用事で外出し、代わりに俺が留守番をするよう頼まれた時だ。薄暗くなり始めたリビングで、彼女と並んで座った。窓の外からは遠くで鳴る蝉の声と、夏の夕立の予感を含んだ湿った風が吹き込んでいた。
「一緒に夕食をどう?」と彼女が微笑みかけたとき、その目がわずかに揺れているのを見逃さなかった。彼女もまた、何かを抱えているのではないかと、その時初めて直感した。彼女の声がどこか寂しげに響き、胸の奥が奇妙なくらい締め付けられた。その食卓での会話は取り留めのないものだった。料理の話、親友の幼い頃の話。だけど、彼女との視線が交わるたび、俺の中で確実に何かが高まっていった。
それが始まりだった。偶然を装った出会いが少しずつ増えていき、言葉以上に視線で交わされる何かが大きくなっていったのを、俺も彼女も自覚していた。最初に触れたのは、ほんの軽い手の甲だった。夕方の食事を終えた後、皿を片付ける手が触れ合った瞬間、彼女の手が微かに震え、それでも引っ込めるのをためらった姿に、俺は完全に心を奪われていた。
日常の中に流れるこの禁断の空気は、俺たち二人を絡め取るようにしてゆっくりと支配していった。親友の帰宅時間を気にしながら、あまりに短くも甘美な時間を共有するたび、その罪の意識と欲望との狭間で揺れ動いた。彼女もまた同じようだった。親友である息子を気遣いつつも、彼女の視線の奥には明らかに抑えていない炎のようなものが揺らめいていた。
ある晩、親友が泊りがけの旅行に出かけたと聞いた時、俺は抑えきれない衝動に突き動かされた。夜風に揺れるカーテンの向こうで静まり返った家の中、彼女が小さな明かりだけを灯したリビングで一人、雑誌を広げているのを見つけた。俺が声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げ、わずかに微笑んだ。その表情に隠しきれない影を感じた。
「夜更かし、ですね」と俺は軽口を叩いた。彼女の隣に腰掛けると、近づきすぎたことに気づいても、彼女は身を引かなかった。ただ少し唇が震えたのを、俺は見逃すことができなかった。部屋に漂うのは静寂と、互いの心音だけだった。
「こんなこと、いけないわ」と彼女が呟く。その言葉はまるで自分に言い聞かせるようだった。でも、俺はそんな彼女の手をそっと取り、微かかに震えるその手を包むように握りしめた。彼女の瞳が揺れ、何かを訴えかけるようでもあり、また諦めの影を含んでいるようにも見えた。「本当にいけないのなら、ここで…止めてください」と俺は低く囁いた。言葉としては理性を口にしたが、その声には明らかに望みに満ちた抑えきれない感情が混ざっていた。
彼女は視線を下に落とし、小さく息を吐いた。その指先が俺の手の中でわずかに力を込めるのを感じた瞬間、全ての理性が薄れていった。そして彼女もまた、その葛藤の波に押し流されるようにゆっくりと顔を上げた。その目はもう、罪の意識よりも大きな感情に支配されていた。彼女の唇がわずかに開き、何かを言おうとして声を失った刹那の快楽に酔う、俺はその沈黙に引き寄せられるようにして距離を縮めた。気づけば肌が触れるほど近く、彼女の体温と微かな香りが胸に広がった。戸惑いと抗おうとする意志が彼女の表情に現れていたが、同時にそこにはためらいきれない誘いのようなものも秘められていた。
「これ以上はいけないわ…」再び口にした彼女の声は、警告というよりも、自分自身への儚い抵抗のようだった。その声がかすれるように消えた瞬間、俺の手は自然と彼女の頬に触れた。その温かさに、彼女の理性が揺らぎを見せ、目がゆっくりと閉じていった。それは、許しでもあり、逃げ場を失った自分への諦めでもあったのかもしれない。
二人の間に漂う沈黙は、罪悪感とそれを凌駕する欲望の交錯そのものだった。この瞬間、何が正しいのかを問う声はすでになかった。彼女の震える唇に触れた瞬間、世界の音がすべて消え去ったような錯覚に陥った。後戻りできないことを、俺たちはどこかで理解していたはずだ。それでも、理性が砕け散る音を聞きながら二人はさらに深く溶け合っていった。
彼女の指先が俺の肩にそっと触れた瞬間、そこに宿る迷いと欲望が同時に伝わってきた。その温もりは抗いがたく、けれどその背後には深い罪の影が付きまとっているようだった。彼女のかすれるような息と共に、小さな声で囁く。「これで最後にしましょう…」その言葉にどこか悲痛な響きを感じたが、同時にそれが真実にならないことをお互い知っていた。
この瞬間だけに存在する永遠が、二人を再び縛りつけていたのだから。翌朝、静かな陽の光が部屋に差し込む中、俺は微かに漂う香りで目を覚ました。キッチンの方から聞こえる何気ない食器の音、そして彼女の足音。その全てが、昨夜の出来事を現実のものへと変えていく。罪悪感がないわけではなかった。むしろ心の中には重い影が広がっていた。それでも、彼女の背中を見つめる俺の中には、言葉にできない感情もまた渦巻いていた。
「起きたのね」と振り返った彼女は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。その笑顔の裏にある心の揺れを、俺は見逃さなかった。しかし彼女は、まるで何事もなかったかのようにトーストを皿に置き、コーヒーカップを俺の前に静かに差し出す。「どうぞ」と短く言う声が割れないガラスのように響いた。
俺はただ頷いてカップを受け取ったが、すべてが今後どうなっていくのか、答えはどこにも見つからなかった。そして彼女もまた言彼女がそっとテーブル越しに微笑む姿を見つめながら、俺は昨夜の感触がまだ肌に残っているような錯覚に囚われていた。その笑顔は不思議なほど日常を装っていたが、奥底にある揺らぎを俺だけが感じ取れる。それが特権のようであり、同時に耐え難い重荷にも思えた。
「今日は何か予定あるの?」と彼女が尋ねる声は、どこか遠くから響くような感覚だった。俺は首を横に振りながらも、言葉が喉に詰まって出てこなかった。目の前の彼女が昨夜の彼女と同じ人だというのが信じがたく、同時にその事実がどうしようもなく胸を締め付けた。
彼女はそっと視線を落とし、小さく息を吐いた。それはまるで何かを隠すような仕草で、その静けさの中にある言葉にならない思いが漏れ出しているようだった。俺は何を言えばいいのか分からず、ただコーヒーに視線を落とすしかできなかった。その沈黙がこれ沈黙の中で、彼女が小さく笑うのが聞こえた。その笑いはどこか虚ろで、決して楽しいものではなかった。テーブルに揺れる彼女の指先を見つめながら、俺はすべてを問いただしたい気持ちと、何も触れずにこのままでいたい気持ちに揺れ動いていた。
「昨日のことは…忘れてね。」その言葉は静かで、まるで一筋の風のように通り過ぎた。しかし、その静けさがかえって俺の胸を強く叩いた。忘れる、そんなことができるのだろうか?俺の中に渦巻く感情が答えを告げていた。この物語は既に始まってしまったのだ、と。
彼女が立ち上がり、いつものように皿を片付け始めたその背中は、昨日と変わらない穏やかさを装っていた。だが俺には、その背中が抱える逃げ場のない葛藤がはっきりとわかった。二人だけの秘密の足音が、これからどんな未来へとつながっていくのか。俺たちは、その答えを見る覚悟さえ無く、しばらくその背中を見つめたまま、俺は立ち上がることもできずにいた。
彼女の静かな仕草ひとつひとつが、昨日の熱を打ち消すようにも感じられたし、かえってそれを際立たせるようにも思えた。俺は口を開きかけたが、余計な言葉を発すれば何か大切なものを壊してしまいそうな気がして、唇を噛んで耐えた。
不意に彼女が振り返り、短く微笑んだ。「大丈夫だから。」その一言は、彼女自身への言い訳なのか、俺を安心させるためのものなのか分からなかった。でもその目の奥に僅かに揺れる感情を見て、俺は軽い頷きしか返せなかった。俺たちはもう踏み込んでしまった。後戻りしたい気持ちと、この関係に酔い続けたいと思う自分の間で引き裂かれながら、俺はまだ揺れ続けていた。
コメント
コメントを投稿