玄関のインターホンが鳴ったのは、午前十時すぎだった。
「――管理組合の者ですが、本日、水回りの定期点検で伺いました」
落ち着いた低い声。若々しいというより、年齢を重ねた深みのある声だった。
ドアを開けると、グレーの作業服を着た男が立っていた。
四十代後半か、もしかすると五十に近いのかもしれない。髪には白いものが少し混じり、目元には疲労よりも、経験の積み重ねのような影がある。
「突然すみません。すぐ終わりますので」
「いえ、大丈夫です。どうぞ…」
私はエプロン姿のまま彼を家に上げた。
家に“他人”、しかも中年の男性が入ってくるだけで、空気が少し変わる。
自分の家なのに、急に所在ない気持ちになる不思議さ。
「奥さん、お邪魔します。キッチンの下、水漏れがないか確認しますね」
「はい…お願いします」
彼はしゃがみ込み、シンク下の収納を開けた。
その姿を見下ろす形になる。
ふだん夫しか入らない我が家の空間に、別の男性が気配を落としこむ。
胸がすこし、ざわついた。
「奥さん、これ、少し緩んでますね。締めておきます」
「あ…ありがとうございます」
作業着の布越しに見える肩の厚み、無駄に鍛えたような筋肉ではない。
長年の肉体仕事で自然についた“使える身体”の形。
それがなぜか、妙な安心感と、説明しづらい刺激を同時にくれる。
「ほかに気になるところはありませんか?」
「そうですね…洗面所のあたりが少し…」
「では見せてもらっていいですか」
彼の声は低く、穏やか。
家の静けさに、妙に響く。
洗面所に案内すると、彼はまたしゃがみ込んで点検を始めた。
私は横に立つ。距離は近い。
その近さが、普段なら気にならないはずなのに、今日は少し落ち着かない。
「奥さん」
「はい?」
「……なんだか、変な顔してますけど、大丈夫ですか?」
思わず肩が跳ねた。
「え? あ…すみません。そんなつもりじゃ…」
「いや、怒ってるわけじゃないんです。ただ…」
彼はゆっくり立ち上がり、私とほぼ同じ高さに視線を上げた。
間近で見ると、彼の瞳は驚くほどまっすぐだった。
「奥さん…そんな顔、誰に見せるつもりだったんですか?」
「え……?」
「緊張してるんですか? それとも…人が家に入ってくるの、苦手でした?」
「い、いえ。そういうわけでは…」
「なら、なんでそんな…誘うみたいな目で見るんです?」
冗談めかして言っているのはわかった。
だけど、その声音の奥にふっと潜む真剣さが、胸の奥を軽く叩いた。
「誘ってなんて…そんなつもりは」
「わかってますよ。奥さんは真面目な人だ」
彼はふう、と息を吐いた。
その距離の近さに、私は思わず視線をそらした。
「でもね」
彼の声が少し低くなる。
「誰にだって、ふとした瞬間に、本音が出ることがあるんです」
「本音…?」
「ええ。たとえば――“誰かに見てほしい”とか」
胸の奥に、針の先ほどの熱が落ちた。
「そんな……」
「違いますか?」
「違う…と、思います。たぶん…」
けれど否定しきれなかった。
夫には言えない“孤独な揺らぎ”みたいなものが、心のどこかで膨らんでいたから。
彼は工具を片づけながら言った。
「奥さん、美人ですし。そりゃ、見惚れる人もいるでしょう」
「や、やめてください。からかわないで」
「からかってませんよ」
その“からかっていない”という言い方がまた、心をざわつかせた。
「点検はすべて終わりました。問題なしです。ただ…」
「ただ?」
「旦那さんに言うんですか? “今日、変な人が来た”って」
「えっ……そんなこと言いませんよ」
「言わないでくださいね。奥さんの、さっきの顔……秘密にしますから」
「ひ、秘密って……」
「俺だけが知ってる、ってやつです」
心の奥が引き絞られたように、ぎゅっと音を立てた。
「安心してください。何もしませんよ」
彼は優しい笑みを浮かべて言った。
「奥さんが望まない限りは」
「……」
「じゃあ、また来月の点検で。奥さんに会えるの、ちょっと楽しみです」
そう言って彼は玄関に向かった。
ドアが閉まる直前、彼は振り返ってひとことだけ残した。
「――さっきみたいな顔、旦那さんに見せてあげてくださいね」
扉が閉まり、静寂が戻る。
私はその場でしばらく動けなかった。
まるで、心の奥に隠していた“女としての熱”を、見透かされたようで。
そしてその感情が、誰にも言えないまま、そっと胸の奥で育ち始める。
――来月、また彼が来る。
その事実だけで、私は少しだけ息を止めた。
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