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奥さん…そんな顔、誰に見せるつもりだったんですか?


 玄関のインターホンが鳴ったのは、午前十時すぎだった。

「――管理組合の者ですが、本日、水回りの定期点検で伺いました」

 落ち着いた低い声。若々しいというより、年齢を重ねた深みのある声だった。

https://youtu.be/jT9O3-H_V34


 ドアを開けると、グレーの作業服を着た男が立っていた。

 四十代後半か、もしかすると五十に近いのかもしれない。髪には白いものが少し混じり、目元には疲労よりも、経験の積み重ねのような影がある。


「突然すみません。すぐ終わりますので」

「いえ、大丈夫です。どうぞ…」


 私はエプロン姿のまま彼を家に上げた。

 家に“他人”、しかも中年の男性が入ってくるだけで、空気が少し変わる。

 自分の家なのに、急に所在ない気持ちになる不思議さ。


「奥さん、お邪魔します。キッチンの下、水漏れがないか確認しますね」

「はい…お願いします」


 彼はしゃがみ込み、シンク下の収納を開けた。

 その姿を見下ろす形になる。

 ふだん夫しか入らない我が家の空間に、別の男性が気配を落としこむ。


 胸がすこし、ざわついた。


「奥さん、これ、少し緩んでますね。締めておきます」

「あ…ありがとうございます」


 作業着の布越しに見える肩の厚み、無駄に鍛えたような筋肉ではない。

 長年の肉体仕事で自然についた“使える身体”の形。

 それがなぜか、妙な安心感と、説明しづらい刺激を同時にくれる。


「ほかに気になるところはありませんか?」

「そうですね…洗面所のあたりが少し…」


「では見せてもらっていいですか」


 彼の声は低く、穏やか。

 家の静けさに、妙に響く。


 洗面所に案内すると、彼はまたしゃがみ込んで点検を始めた。

 私は横に立つ。距離は近い。

 その近さが、普段なら気にならないはずなのに、今日は少し落ち着かない。


「奥さん」

「はい?」

「……なんだか、変な顔してますけど、大丈夫ですか?」


 思わず肩が跳ねた。


「え? あ…すみません。そんなつもりじゃ…」


「いや、怒ってるわけじゃないんです。ただ…」

 彼はゆっくり立ち上がり、私とほぼ同じ高さに視線を上げた。

 間近で見ると、彼の瞳は驚くほどまっすぐだった。


「奥さん…そんな顔、誰に見せるつもりだったんですか?」


「え……?」


「緊張してるんですか? それとも…人が家に入ってくるの、苦手でした?」


「い、いえ。そういうわけでは…」


「なら、なんでそんな…誘うみたいな目で見るんです?」


 冗談めかして言っているのはわかった。

 だけど、その声音の奥にふっと潜む真剣さが、胸の奥を軽く叩いた。


「誘ってなんて…そんなつもりは」

「わかってますよ。奥さんは真面目な人だ」


 彼はふう、と息を吐いた。

 その距離の近さに、私は思わず視線をそらした。


「でもね」

 彼の声が少し低くなる。

「誰にだって、ふとした瞬間に、本音が出ることがあるんです」


「本音…?」


「ええ。たとえば――“誰かに見てほしい”とか」


 胸の奥に、針の先ほどの熱が落ちた。


「そんな……」

「違いますか?」


「違う…と、思います。たぶん…」


 けれど否定しきれなかった。

 夫には言えない“孤独な揺らぎ”みたいなものが、心のどこかで膨らんでいたから。


 彼は工具を片づけながら言った。


「奥さん、美人ですし。そりゃ、見惚れる人もいるでしょう」

「や、やめてください。からかわないで」

「からかってませんよ」


 その“からかっていない”という言い方がまた、心をざわつかせた。


「点検はすべて終わりました。問題なしです。ただ…」

「ただ?」

「旦那さんに言うんですか? “今日、変な人が来た”って」


「えっ……そんなこと言いませんよ」


「言わないでくださいね。奥さんの、さっきの顔……秘密にしますから」


「ひ、秘密って……」


「俺だけが知ってる、ってやつです」


 心の奥が引き絞られたように、ぎゅっと音を立てた。


「安心してください。何もしませんよ」

 彼は優しい笑みを浮かべて言った。

「奥さんが望まない限りは」


「……」


「じゃあ、また来月の点検で。奥さんに会えるの、ちょっと楽しみです」


 そう言って彼は玄関に向かった。

 ドアが閉まる直前、彼は振り返ってひとことだけ残した。


「――さっきみたいな顔、旦那さんに見せてあげてくださいね」


 扉が閉まり、静寂が戻る。


 私はその場でしばらく動けなかった。

 まるで、心の奥に隠していた“女としての熱”を、見透かされたようで。


 そしてその感情が、誰にも言えないまま、そっと胸の奥で育ち始める。


 ――来月、また彼が来る。


 その事実だけで、私は少しだけ息を止めた。


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