「ねえ、ちょっといい?あの時のこと、話してもいいかな?何でもない出来事のはずなんだけど…なんだか今でも鮮明に覚えてるのよ。高校生の時ね、近所に住んでたおじさんから、クリの皮むきを教わったことがあったの。その出来事が、今思い返してみると、私にとってはただの栗むきじゃなかったんだって、最近ようやく気付いたの。」
秋も深まって、庭に落ち葉が舞い散る季節だった。家の向かいに住むおじさんは、いつも庭先で何かしらの作業をしているのが印象的で、私は子供の頃からそれをぼんやり眺めるのが好きだった。ある日、学校から帰る途中、ふとしたきっかけでそのおじさんと話をすることになったの。いつも無口で近寄りがたいと思っていたのに、その日はなんだか優しそうな顔で私に声をかけてくれたのよ。
「お、○○ちゃん。ちょっと手伝ってくれないか?」
おじさんが私を呼び止めて、庭先のテーブルの上に山積みになった栗を指差したの。
「栗の皮むき…?私、やったことないけど…」
「いいよ、教えてやるからさ。簡単だよ。」
そう言って、おじさんはにっこり笑った。その笑顔に、ちょっとドキッとしたのを覚えてる。だって、それまでおじさんの笑顔なんて、ほとんど見たことがなかったんだもの。
テーブルに腰掛けて、私はおじさんの隣に座った。栗の皮むき器なんて使わない、包丁一本でむいていく方法を教えてくれたのよ。最初はぎこちなくて、なかなかうまく剥けなかった。でも、おじさんが優しく手取り足取り教えてくれて…その時の距離感がね、なんだか妙に近く感じたの。
「ほら、こうやって包丁の先を栗の隙間に入れて、少しずつ力を入れるんだ。急がず、焦らずにな。」
「こうかな…?」
「うん、いいぞ。あとは渋皮を取って…よし、上手い上手い。」
おじさんの手が私の手に触れる瞬間、その温もりが伝わってきて、何かが胸の奥でざわめいたの。でも、その時はただ緊張してるだけだと思ってた。
「ねえ、おじさんってさ、昔から栗の皮むき得意だったの?」
「まあな、昔はよく山で拾ってきたもんだ。お前みたいな若い頃に覚えたよ。」
「ふーん。なんか意外。もっと不器用かと思ってた。」
「そんなに見くびるなよ。ちゃんとできることもあるんだぞ。」
そう言って笑うおじさんの横顔が、なんだか普段の無口な印象とは違って見えたの。優しくて、包み込んでくれるような雰囲気に、ちょっとドキドキしたんだ。
「お前は器用だな。すぐに上手くなった。栗剥き名人だ。」
「え、そんなことないよ。おじさんがうまく教えてくれたからだよ。」
「そうか…まあ、誰にでもできることじゃないさ。」
その時の彼の声は、妙に落ち着いていて、でも少し寂しげでもあった。栗を剥く作業に集中していたけれど、ふと彼の横顔を見た時、何かを隠しているような表情をしていた気がする。
栗を剥き終えた後、おじさんが剥いた栗を袋に入れて渡してくれた。
「持って帰って、家で炊いてみな。お前の栗ご飯、楽しみにしてるぞ。」
「ありがとう、おじさん。今度、うちの栗ご飯食べにきてよ。」
「はは、じゃあ、期待してるよ。」
そのまま私は栗を持って家に帰ったけど、その日からおじさんのことが頭から離れなくなったの。なんであんなに優しかったのか、なんであの瞬間、彼の手の温もりがこんなに強く残ってるのか、自分でも説明できなかった。でも、それが自分の中で何か特別な感情に変わっていくのを、気づかないふりをしていた。
しばらくして、もう一度おじさんの家を訪れた。栗ご飯を作ったから、一緒に食べようと思って。けれど、おじさんはその日、仕事で遠くに行くと言って家を離れた後だったの。
「すぐに帰ってくるさ」っておばさんが言ってたけど、それからおじさんとはあまり話すこともなくなっていったわ。いつの間にか引っ越しをして、おじさんの姿を見ることはなくなった。
今思えば、あの時私はただ栗の皮を剥いていたんじゃなかった。おじさんとのあの瞬間が、私にとっては初めての淡い恋のようなものだったのかもしれない。近くにいるのに、何か特別な存在として感じた、その微妙な距離感が今でも胸に残っている。
「ねえ、どう思う?あの時のおじさん、今はどこにいるのかな。もう会うこともないだろうけど、あの日の栗剥きが、私にとっては忘れられない思い出になっちゃったみたい。」
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「そう、今でもあの時のことを思い出すの。なんてことのない栗の皮むきだったはずなんだけど、心の奥に静かに刻まれちゃってる感じでさ。変だよね?」
その後、季節が巡り、私も大学に進学して、栗の皮をむくことなんてすっかり忘れていた。でも、秋が来るたびにあの時のことがよぎるの。栗の甘い香りが漂うたび、あのおじさんの温もりが蘇ってくるんだよね。なんだか、不思議じゃない?
ある日、久しぶりに実家に帰ってきた秋の日、母が栗ご飯を炊いていたのよ。ふわっと香る栗の匂いが台所から漂ってきて、あの頃の記憶が一気に蘇った。
「そういえば、昔、栗剥きおじさんに教わったんだよね。あのおじさん、どこ行っちゃったんだろう。」
そう思って、母に何気なく聞いてみたの。
「栗剥きおじさん?ああ、向かいの○○さんね。引っ越してからあまり連絡もなかったけど…最近戻ってきたみたいよ。」
「えっ、戻ってきたの?」
「そうそう。なんでも、仕事の関係で一度遠くに行ってたけど、今はもうこっちで落ち着くらしいよ。今度また会いに行けば?」
母の何気ない一言に、私は心がざわめいた。なんでこんなに胸がドキドキするのかわからなかったけど、その夜、なんとなく眠れなかったの。
「会いに行くべき…かな?いや、そんなわけないよね。だって、あれはほんの一瞬の出来事だし…」
自分に言い聞かせるようにしてベッドで考えてたけど、どうしても気持ちが収まらなかったの。なんか、会わなきゃいけない気がしてね。だから、次の日、思い切って行ってみたんだ。
家の前まで来たけど、なぜか足が重くて。ドアの前で立ちすくんでいると、不意にドアが開いたの。
「おお、○○ちゃんじゃないか。久しぶりだな。元気だったか?」
目の前に立っていたのは、あの栗剥きおじさん。その瞬間、心が一気に過去に引き戻されたような気がして、胸が苦しくなった。変わらない、でも少し歳を重ねた彼の顔を見たら、なんだか安心したのと同時に、胸の中にぽっかりと穴が開いたみたいな気がした。
「おじさん…本当に、戻ってきたんだね。」
「そうだよ。今はもうここで暮らしてるよ。ところで、今日は何の用だい?まさか、また栗の皮を剥きに来たのか?」
おじさんは冗談めかして笑ったけど、私はその軽い言葉にどう返せばいいのか分からなくて、ただ立っていたの。
「あ…栗、懐かしいね。そう、あの時はありがとう。おじさんに教えてもらって、今でも覚えてるんだ、あの時のこと。」
「そっか。覚えててくれたんだな。俺も、お前と一緒に栗を剥いてた時のこと、覚えてるよ。あれは、俺にとっても楽しい時間だったからな。」
おじさんの声はいつもの落ち着いたトーンだけど、その言葉に少しだけ感情が込められているように聞こえた。
「実はね、あの時のこと、今でも時々思い出すんだ。なんでか分からないけど、おじさんが教えてくれた栗剥きのことだけじゃなくて…あの時の雰囲気とか、全部。」
言葉が口から自然に出てきて、自分でも驚いた。でも、伝えなきゃいけないって思ったの。おじさんが静かに私を見つめているのを感じながら、少しだけ息をついた。
「私ね、あの頃はまだ子供だったけど、あの時からずっと、何か特別なものを感じてたんだ。おじさんのこと、特別に思ってたんだと思う。」
おじさんは驚いたような表情を見せたけど、すぐにその顔に優しい微笑みが浮かんだ。
「そうか…。俺もあの時、お前が大人になっていくのを感じてた。けど、俺は…あのまま何も言わない方がいいと思ってたんだよ。お前はまだ若かったし、俺にはあの距離感がちょうど良かったんだ。」
「でも…」
「いや、ありがとう。こうやって話してくれて。お前がそう思ってたなんて、嬉しいよ。でも、それはもう過去のことだ。今のお前はもう大人だし、俺も変わってしまった。過去に戻ることはできないけど…それでも、今こうやって再会できたことが嬉しいよ。」
おじさんの言葉を聞きながら、胸の中に込み上げてきたのは寂しさだった。でも、その寂しさの中にもどこか温かさがあったの。過去の思い出にちゃんと区切りをつけることができたから。
「ありがとう、おじさん。これで良かったのかもしれないね。でも、また栗剥き、教えてもらえる?」
「もちろんだよ。いつでもおいで。」
おじさんとの再会は、私の中でずっとしまい込んでいた感情を解き放つものだった。そして、栗の皮を剥くように、少しずつ私自身の心もむけていく感覚があったの。
今は、また新しい秋が始まった。そして、あの日の記憶も穏やかな思い出として心に残っているんだよ。
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「それから、また何度かおじさんの家に行ったんだ。おじさんも栗の皮むきの話を笑いながら持ち出して、まるであの頃に戻ったみたいに楽しい時間を過ごした。でもね、その度に、私の中に何かぽっかりと空いた穴みたいなものが広がっていくのを感じてたの。」
秋の冷たい風が吹き抜ける庭先で、おじさんはいつも通り栗の皮を剥きながら、穏やかな顔で私を見ていた。手際よく包丁を扱うその姿は、あの頃のまま。でも、私の心はもうあの頃とは違っていたのかもしれない。栗の甘い香りと一緒に、何か大切なものを失ってしまったような、そんな気持ちが胸に広がっていたんだ。
「ねえ、おじさん…」
私はつい、声に出してしまった。ずっと言わないでおこうって決めてたのに、どうしても言いたくなって。
「ん?どうした、急に。」
おじさんは不思議そうに私を見上げたけど、その視線は優しくて、変わらない温もりを持ってた。
「私、あの時ね、おじさんのことが好きだったの。今だから言えるけど、あの栗剥きの時も…ただ教わってただけじゃなかったんだよ。」
おじさんは少し驚いたように目を見開いたけど、すぐにふっと笑ったの。
「そうか…○○ちゃん、そんな風に思ってたんだな。けど、俺はさ、あの時からずっとお前のことを大事に思ってた。けど、それは子供を見守るみたいな気持ちだったんだよ。だから…お前の気持ちには気づかなかったな。」
その言葉を聞いて、私の胸は締め付けられるように痛んだ。おじさんにとって私は、やっぱり"あの頃の子供"だったんだって思うと、何とも言えない切なさがこみ上げてきたの。
「うん、分かってるよ。おじさんは優しいから、きっとそうだろうなって思ってた。でも、私が勝手に気持ちを持ってたんだ。あの時の、ほんの一瞬のドキドキを、大人になってもずっと覚えてる自分がちょっと恥ずかしくてさ。」
「そんなことないさ。お前の気持ちは本物だったんだよ。大事な思い出として胸にしまっておけばいい。それで、今はまた新しい気持ちで前を向いていければ、それでいいんじゃないか?」
おじさんは栗を剥きながら、ゆっくりと話してくれた。その手の動きは、相変わらず丁寧で、でもどこか寂しそうにも見えた。
「おじさんってさ、本当に何も変わらないよね。いつも落ち着いてて、優しくて。昔からそうだったけど、今もそうなんだなぁ。」
そう言いながら、私はまた少しだけおじさんとの距離を感じた。心の中にあるその小さな距離は、もう埋まらないのかもしれないって、そんな風に感じたの。
「でも、ね…ありがとう。こうしてまた会えて良かった。栗の皮むきだけじゃなくて、あの時の私に大事なことを教えてくれたんだと思う。」
「大事なこと?」
おじさんは栗を剥き終えて、手を止めて私を見た。
「うん。大事な思い出を、心の中にしまっておくことの大切さとか、焦らずゆっくり生きることとか。おじさんはいつも何気ない感じで教えてくれたけど、それが私にはすごく大事だったんだよ。」
「そうか…。お前がそんな風に思ってくれてるなら、俺も嬉しいよ。」
おじさんの声はいつもより少しだけ低く、静かだった。
その後、私たちは何も言わずに、ただ栗を剥き続けた。風が少し冷たくなってきたけど、その場の静かな空気が心地よかった。
「…そろそろ帰ろうかな。」
私が立ち上がると、おじさんもゆっくりと立ち上がった。
「またいつでも来いよ。栗でも何でも、教えてやるからさ。」
「うん、ありがとう。次は何を教わろうかな。」
私は笑って、おじさんに手を振って別れた。彼の背中が少し遠ざかっていくのを見ながら、心の中で「さよなら」を言ったんだ。
もう過去に囚われることなく、前に進むために。
そして、私は秋の冷たい風に吹かれながら、静かに歩き出したの。栗の香りがまだ鼻に残っていて、思い出がほんのり甘く感じた。
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