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あの夜の義母の声がね、まだ耳に残ってるんです。


「……義母さんの声がね、まだ耳に残ってるんです。  

あれから何日経ったかなんて、もう正直どうでもいいくらいに。」


あの夜、俺はひとりで風呂あがりの廊下に立っていた。  

夏の終わりで、まだ蝉がしつこく鳴いていて、  

その声にかき消されるように、義母さんの部屋の戸が、ゆっくりと開いた。


「あら……まだ起きてたの?」


白い浴衣の裾を少しだけはだけさせて、  

肩まで濡れた髪から石けんの香りがふわっと漂った。


「お酒……一緒に飲む? せっかくだから」


小さなグラスをふたつ。冷えた日本酒。  

義父の仏壇に手を合わせたあと、義母さんは、少し笑った。


「最近、あなたの声が落ち着いてきたの。頼りがい、出てきたわよ」


ぽつり、ぽつりと交わす言葉のなかに、  

俺の心は少しずつ、熱を帯びていった。


いつのまにか、距離は近づいていた。  

風鈴の音がひとつ鳴ったあと、静かになって、  

義母さんはこう言ったんだ。


「……黙っててくれるなら、少しだけ。あなたを甘やかしたいのよ」


その声がね、どうしようもなく艶があって、  

耳の奥に入りこんで、離れてくれなかった。


細い指先が俺の手を包み、  

吐息混じりの言葉が首筋をなぞった。


「こんなこと、ほんとは、だめなのよ……ねえ、わかってる?」


言葉の裏にある“本音”を、  

俺は聞き逃さなかった。


あの夜の記憶は、  

肌の感触よりも、匂いよりも、  

義母さんの“声”として俺の中に焼きついてる。


朝になっても眠れずに、  

繰り返し思い出してしまうのは、  

彼女が耳元で囁いた、  

あのひとことだ。


「……もう、忘れなさいね。これは夢だったのよ」


でも――  

その“夢”が、あまりに甘くて、  

あまりにやさしくて。  

今でも、夜になると……耳が、疼くんです。




それからというもの、義母さんと目が合うたびに、胸の奥がざわついた。  

食卓では何もなかったように箸を動かす彼女の横顔を、俺は盗み見ることしかできなかった。  

娘――つまり、俺の妻の前では、いつもの優しい義母で。  

けれど俺には、もうそれ以上の存在にしか見えなかった。


夜になると、思い出す。  

あのときの吐息交じりの声。  

耳元で、喉を鳴らすように囁いた言葉。


「……もう、やめましょうね」  


でも、その“やめましょう”が、どうしても俺には、  

“またね”と聞こえてしまう。


風呂上がりに髪を結ぶ姿。  

ふいに指が触れたときの、わずかな震え。  

目が合ったあとの、ほんの少しの沈黙。


どれもこれもが、あの夜の続きを匂わせてくる。


一度だけ、彼女の後ろ姿に手を伸ばしかけたことがある。  

洗濯物を干す背中が、どうしようもなく寂しそうで。  

でも、あと一歩が踏み出せなかった。


俺は、義母の“声”に取り憑かれていた。  

耳の奥に焼き付いて、抜けてくれない。  

優しさと罪の香りが混ざった、あの声――


「……あなたは、優しすぎるのよ。だから、余計にいけないの」


その言葉が、囁くように繰り返される。


俺がこの家を出る日が来ても、  

たぶん、ずっと耳に残るだろう。  

風が吹いたとき。  

誰かに名前を呼ばれたとき。  

ふとした瞬間に蘇る、義母の声。


そして俺は、また、夜をひとりで越えてゆく。  

忘れたくないのに、思い出すことしかできない夜を。


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