玄関の鍵を閉めた瞬間、背中にひやりとした気配がまとわりついた。
「……また、来たのね?」
私は靴を脱ぎながら、誰にともなく声をかけた。
ここ半年ほどだろうか。夫が単身赴任になってから、夜になると“影”が私のそばへ寄ってくるようになった。
姿は見えない。でも、確かに感じる。
気配と、温度と、そして……触れ方。
「今日だけはやめてよ、疲れてるんだから……」
そう言いながらも、心のどこかで期待している自分がいる。
寂しさは、人を弱くも、奇妙に大胆にもする。
リビングの灯りをつけると、部屋の隅の暗がりがゆらりと揺れた。
「ちょっと……聞いてる?」
私はため息をつき、ソファに身を沈めた。湿った空気が肌を撫でる。
――スッ。
肩に、ふわりと何かが触れた。
「だから、やめてって言ってるのに……」
声は震えていた。拒む言葉と裏腹に、肌が敏感に反応してしまう。
影は、まるで私の心を読んでいるみたいに寄り添ってくる。
子どもの頃、夜中に母の布団へもぐり込んだ時のような温かさ。
でも、そこにいるのは“人”ではない。
「ねぇ……どうして私なの? 私、そんなにすがりつきやすそうに見える?」
質問しても、返事はない。ただ、私の首筋すぐ近くで空気が揺れる。
そして――背中へまわりこむように、影が寄り添った。
「ちょっと……密着しすぎよ……」
苦情めいた声なのに、自分でも気づくほど甘い響きを帯びている。
影の動きは軽く、けれど確かに“触れられている”。
布越しに感じる、温かな手のひらの形。
私は胸の鼓動を必死に抑え込んだ。
「だめ……そんなふうにしたら……誤解しちゃうでしょ……」
影はゆっくりと、私の肩に顔を寄せるような気配をつくった。
誰かに抱きしめられるような包囲感。
孤独な夜に、体温だけが満たされていく。
「もう……ほんとに……」
私はそっと目を閉じた。
影が求めてくる温もりは、夫とは違う。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ、触れてほしくないはずなのに、心の奥がじんわりとほぐれていく。
――カタ。
玄関のほうで、何かが倒れる音がした。
影がふっと離れ、部屋の隅へと戻っていく。
「え……もう行っちゃうの?」
思わず漏れた言葉に、自分で驚いた。
暗がりが、ひとつだけ揺れたように見えた。
まるで、“また来る”とでも言うみたいに。
私はソファから立ち上がり、静かに電気を消した。
「……次は、少しだけ優しくしてよね」
闇の中、影が寄り添う気配が微かに微笑んだ気がした。
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