午後二時。
夫の帰りは夜。
その静けさが、いつもは心地いいのに――今日はなぜか落ち着かなかった。
インターホンが鳴った。
「奥さーん、電気の点検で伺いました」
低い声。
数日前に届いた点検予告の紙を思い出し、私は玄関を開けた。
「こんにちは。少し見させてもらっても大丈夫ですか?」
「あ、はい……どうぞ」
作業服姿の男性は、思っていたより若くて、目元に柔らかい笑みを浮かべていた。
家に入る瞬間、すれ違った肩がかすかに触れ、胸の奥がわずかにざわつく。
「配電盤は……どちらでしょう?」
「リビングの奥です。案内しますね」
男性の足音が、家の静けさの中に響く。
たったそれだけなのに、妙に音が大きく感じた。
私は自分の呼吸が浅くなるのを感じる。
リビングに入ると、彼は工具箱を置き、配電盤を開けた。
「すみません、少し暗いので……照明つけてもらえますか?」
「はい……」
スイッチを押すと、明かりが彼の横顔を照らす。
真剣なまなざし。
作業で腕まくりされた前腕が、思いのほかしっかりしている。
私は視線をそらした。
なのに、どうしてか――落ち着かない。
「奥さん」
「……はい?」
「いえ、なんでも。ちょっと顔が赤いなと思って」
「そんなこと……」
言いながら、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
見られたくないところを覗かれたような、妙な気恥ずかしさ。
彼は作業を続けながら、ふと私の方を向いた。
「奥さん、家におひとりなんですか?」
「ええ、主人は夜まで戻りません」
言った瞬間、空気が変わった気がした。
「……そうなんですね」
その言い方が、どこか含みを持っている。
配電盤の点検が終わり、彼はリビングを見渡した。
「他にも電球とか、不具合あれば見ますよ」
「あ……実は、廊下の電球が最近ちらつくんです」
「じゃあ見ますね。案内してください」
廊下に立つと、彼との距離が急に近くなった。
狭い空間。
体温の気配がすぐ横にある。
「ここです」
私が指さしたその上を、彼が覗き込む。
顔が近い。
少し見上げる形になると、息が胸の奥でつかえてしまう。
「……奥さん」
彼が小声で言った。
「え?」
「さっきから……すごく緊張してますよね」
心臓が跳ねる。
「そんな……こと……」
「いや、わかります。僕の気のせいじゃなければ……」
見上げると、彼の目がまっすぐに私を見ていた。
そのまなざしに射抜かれ、足が少し震える。
「奥さん……すみません。つい目が……」
「……なにを、見たんですか?」
「そんな顔……されたら、男なら誰だって」
彼は言葉を濁したが、意味は十分伝わった。
「ちが……違います。そんなつもりじゃ」
「わかってますよ。でも――」
彼は電球を外すふりをしながら、すれ違いざまに囁いた。
「こんな静かな家で、奥さんと二人きりなんて……想像以上に、危ないですね」
息が止まりそうになった。
「……やめてください。冗談でも」
「冗談じゃなかったら?」
彼の声が低く、少し熱を帯びていた。
その瞬間、私ははっきりと自覚した。
――いま、自分が“境界線”に立っていることを。
「……戻って、作業の続きをしてください」
自分でも驚くほど弱い声だった。
「はい。でも……一つ言わせてください」
彼はゆっくりと振り返り、真っ直ぐな目で言った。
「奥さん、さっきから……僕の方を見る目が、家の中のものを見る目じゃなかったです」
胸が熱くなる。
どきりと脈が跳ね、足先までしびれるような感覚が走った。
「違……」
「違うなら、目を合わせて否定できます?」
できなかった。
目が合った瞬間、すべてを見透かされそうで。
沈黙の中、彼は静かに工具箱を閉じた。
「……今日はこれで終わりです。点検も問題ありません」
「……ありがとうございます」
玄関まで見送る。
靴を履く彼の背に、妙な緊張が流れる。
「奥さん」
「……はい」
「また来週、正式な点検があるんです。その時も……俺が来ます」
「そう……なんですか」
「ええ。だから……」
彼は少しだけ微笑んだ。
「その時までに、気持ち……落ち着かせておいてください」
玄関のドアが閉まった。
静寂が戻る。
なのに、呼吸が整わない。
私は壁にもたれ、胸を押さえた。
――なにをしているの、私。
夫のいない家。
知らない男の声、距離、まなざし。
予想しなかった“揺らぎ”が、まだ身体の奥で静かにくすぶっている。
息を吐いたけれど、熱は引かない。
「……来週、また来るのね」
誰に聞かせるわけでもない独り言が、妙に甘く震えていた。
そして私は、自分の胸の奥に残った“ざわめき”を、
どうしても消せないまま、しばらくその場を動けなかった。
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