会場の照明が少し暗めなのは、中年たちの“優しさ”なのだろう。
50歳の同窓会。
久しぶりに会う同級生の笑い声と、懐かしい曲がゆっくりと空気を揺らしていた。
「村瀬、美沙子……だよな?」
後ろから名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が跳ねた。
忘れようとしても忘れられない声。
「……高梨くん?」
「“くん”はやめてくれよ。もう50だぞ」
「ふふ、そうね。でも驚いたわ。来てたのね」
軽く笑った彼の横顔に、息が止まりそうになった。
30年前、卒業式の日、誰にも言えない秘密を抱かせた相手。
ほんの短い“過ち未満”の出来事。
あのとき、彼は私の頬に触れかけて??そのまま何も言わずに去った。
「ずいぶん変わったな、美沙子」
「年相応に、よ?」
「いや……綺麗になった。昔より、ずっと」
そんなふうに言われたのなんて、いつぶりだろう。
夫からも、もう聞かなくなった言葉。
「……やめてよ。からかわないで」
「からかってない。会った瞬間、胸が騒いだ」
胸が騒いだのは、私のほうだ。
しばらく近況を話したあと、彼はワイングラスを回しながら言った。
「実はさ……今日来た理由、ひとつだけなんだ」
「何?」
「おまえに会うためだよ」
真っ直ぐな視線に、心がほどけそうになった。
「そんな、映画みたいなこと……」
「映画でも言わないよ。50歳でこんなこと言うなんてさ」
「ほんとに……どうしたの?」
「後悔してたんだ。ずっと」
後悔?
彼に?
私に?
「卒業式のあの日……おまえの手、握れなかっただろ」
「……覚えてるの?」
「忘れるわけない。あのとき……触れたら、戻れなくなると思って」
彼は少し笑って、グラスを置いた。
「でもな、美沙子。もう50だ。戻れなくなることなんて、もうほとんどない」
「戻れなくなること、あるわよ」
「旦那さんのこと?」
その一言に、息が詰まった。
「……そう。私、結婚してる」
「知ってるよ」
「どうしてそんな平気な顔してるの」
「だって、会いたかったんだから」
その直球さが、残酷で甘い。
「ちょっと外、歩かない?」
「……だめよ」
「なんで?」
「誰かに見られたら……」
「見られたら、“昔の同級生と話してた”って言えばいい」
その軽さが、余計に危険だった。
「美沙子……逃げるなよ」
逃げられるなら、とっくに逃げている。
同窓会の会場の外に出ると、夜の空気がひんやりと肌に触れた。
「覚えてる? 昔、帰り道で……」
「言わないで」
「あのとき、手が触れそうになって??」
「言わないでってば」
言ってほしくないのに、聞きたかった。
「……触れたかった」
彼の声は、昔よりずっと深かった。
「美沙子」
「なに」
「手、出して」
拒むはずだった。
でも気づけば、私はそっと手を伸ばしていた。
彼の手が触れる。
それだけで、30年分の理性がきしむ音がした。
「……震えてるぞ」
「あなたが……こんなこと言うからよ」
「言わせたの、おまえだよ」
彼は私の指をゆっくり包み込んだ。
その包み方が、20代の頃よりずっと優しくて、ずっと深くて、ずっと危なかった。
「美沙子。もう、本当のこと言ってもいい?」
「……言わないで」
「言う」
「だめ」
「おまえに会えて、嬉しかった」
思いがけない言葉に、目が熱くなった。
「……私もよ」
「え?」
「会いたかったのは、私もよ。ずっと……言えなかっただけ」
彼はゆっくりと近づいてきた。
大人になった私たちは、もう簡単に“青春”に逃げられない。
「旦那さんには……?」
「言えるわけないでしょう」
「だよな。じゃあ、これはふたりだけの秘密だ」
彼の額が、私の額にそっと触れた。
それだけで足が震えた。
「美沙子……」
「なに……?」
「今のままじゃ帰せない」
その言葉で、完全に崩れた。
「……じゃあどうするの?」
「手、もう離さない」
彼の指が、私の指をしっかりと絡める。
「背徳だな」
「ええ……とんでもなく」
「でも、止まらないだろ?」
「……止まらないわよ。こんなの」
同窓会のざわめきが遠くで揺れ、
私たちは暗い校庭の脇道で、もう二度と戻れない距離まで近づいていた。
50歳の再会は、青春よりずっと残酷で、ずっと甘かった。
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