「ただいま……あら、まだ帰ってなかったのね」
玄関を開けた瞬間、私は思わず声を漏らした。
靴箱の前に置かれた、男物の革靴。
夫のものではない。
——夫の従兄、圭介さんだ。
「悪いな、急に来ちまって」
「いいえ。雨が強いから心配してたところよ」
台所から顔を出すと、圭介さんはいつものように、少し申し訳なさそうに笑った。
けれどその目は、私の髪や服の濡れ具合を細かく追っている。
「傘、折れちゃって……びしょ濡れだな」
「ほんとよ。もう、ついてないわ」
ため息をつくと、圭介さんはタオルを差し出してきた。
その距離が妙に近くて、胸の奥がざわついた。
「拭いてやるよ」
「ちょっと……自分でできるわ」
「濡れて風邪ひくぞ」
タオルが首筋に触れた瞬間、背中がふっと震えた。
雨の冷たさとは違う、じわりとした熱が肌の奥から浮かんでくる。
「ほら、まだ冷えてる」
「圭介さん……そんなに優しくされたら……」
「ん? どうした?」
わざと聞き返すような声だった。
この人はいつもそう。私の動揺を楽しむように、少しだけ踏み込んでくる。
夫は海外出張で数か月家を空けている。
その間、何かあれば彼が家を見に来てくれる。
“家族だから”という理由で。
——その言葉だけが、いちばん厄介だ。
「お茶、淹れるわね」
「いや、いい。座ってろ」
リビングのソファに座らされ、タオルをもう一度渡された。
圭介さんは、キッチンで湯をわかす音を立てている。
その背中を見つめているだけで、胸が締めつけられた。
どうして、この人は家の中にこんなに自然に立っていられるの。
どうして私は、それを拒めないの。
「熱いから気をつけろよ」
「ありがとう……」
湯気がふたりの顔の間にゆらゆら漂う。
その白い揺らぎが、境界を曖昧にしてしまう。
「なぁ、美咲」
名前を呼ばれ、指先が震えた。
夫でさえ、こんなふうに優しく呼んだことはない。
「最近、ちゃんと眠れてるか?」
「え……どうしてそんなこと」
「目が少し赤い。無理してんだろ」
視線がまっすぐで、逃げられなかった。
「……圭介さんが、心配してくれるからよ」
「俺だけじゃねぇよ。——あいつ(夫)も、きっと心配してる」
そう言いながら、圭介さんは私の手に触れた。
ほんの指先だけ。
なのに、全身に熱が広がる。
「家族なんだ。頼れよ、美咲」
「そんなふうに言われたら……余計に、頼れないわ」
「どうして」
「だって……あなたに触れられると、考えちゃうのよ。
“これは家族の距離じゃない”って」
圭介さんは息を呑んだ。
けれど手は離さなかった。
「俺も同じこと、思ってたよ」
「だめ……そんなこと言ったら」
「でも、嘘ついたらもっとだめだろ」
言葉の重さが、雨音に吸い込まれていく。
「美咲……寂しいか?」
「……強がってただけよ」
「強がらなくていい」
そのまま、そっと肩に手が置かれた。
抱きしめるでもなく、ただ寄り添うような距離。
その曖昧さがいちばん残酷だった。
「圭介さん……離れてくれないと、私……」
「離れたら、もっと寂しくなるだろ?」
返事ができなかった。
俯いた私の指を、圭介さんの手が静かに包む。
「泣いてもいい」
「泣いてない……」
「泣きそうだ」
その声があまりに優しくて、胸の奥がほどけた。
「圭介さん……」
「家族だから、寄りかかれよ」
「……そんな家族、ずるいわ」
彼は静かに笑った。
その笑いが、いちばん罪深かった。
雨は、まだ強く屋根を叩いている。
夫の帰らない家で、ふたりの影がゆっくりと重なっていく——。
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