夕方のオフィス。
終業チャイムはもうとっくに鳴っているのに、パソコンの画面だけが静かに光っていた。
「また残業ですか、佐伯さん」
そう声をかけてきたのは、部下の森下。三十二歳の、ちょっと不器用だけど真っ直ぐな男。
「仕方ないわよ。月末はどこもバタバタするんだから」
「でも、一人で背負い込まなくても。僕、手伝いますよ」
私の隣に立つと、彼は当たり前のように資料の山に手を伸ばした。
その距離が近い。近すぎる。
胸の奥で、久しく忘れていた鼓動が小さく跳ねた。
「……そんな顔してどうしたんです?」
「してないわよ。普通よ」
「いえ、なんか。困ってるというか……照れてるような」
照れる? 私が?
冗談じゃない。
そう思うのに、頬が少し熱い。
「もう。あなたは本当に失礼ね」
「すみません。でも、最近の佐伯さん……なんというか、少し柔らかくなった気がして」
「柔らかくなった……?」
「えぇ。前はもっと、壁があったというか」
壁。
そう、私は仕事に集中していればいいと思っていた。
年齢とか、恋とか、そういうものに向き合うのはもう卒業したつもりだったのに。
「佐伯さん」
森下が声を落とした。
「僕、昔から思ってたんです。あなたに頼られると……ちょっと嬉しいって」
「……変なこと言わないの」
「変じゃないですよ」
彼の視線が、真っ直ぐ刺さってくる。
その目に、私はどう映っているのだろう。
「でも……」
ふと言葉がこぼれる。
「あなたから見た私は、ただの“上司”でしょう?」
「そんなこと、思ったことないですよ」
間髪入れず返ってきた言葉に、胸が痛いほど揺れた。
「こんなこと言ったら怒られるかもしれませんけど……」
「なに?」
「……佐伯さん、綺麗ですよ。ずっと」
心臓が跳ねる音が、自分でも驚くほど大きかった。
「やめて。そういうの、冗談に聞こえるから」
「冗談じゃないです」
森下が真剣だということは、表情を見ればわかった。
彼の不器用さを知っているからこそ、その言葉の重みを感じる。
「……ねぇ、森下くん」
気づけば口が勝手に動いていた。
ずっと胸の奥に押し込めていた、聞いてはいけない言葉。
「私のこと……女として見てる?」
言ってしまった。
聞いた瞬間、自分の指先が震えていることに気づく。
この年齢で、こんな質問を口にするなんて。
みっともない、と頭では思うのに、心は止められない。
森下は瞬きをひとつしたあと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「はい。見てます。最初に会った時からずっと」
「……そんなに簡単に言わないで」
「簡単なんかじゃないです。むしろ、怖かったんです」
「怖かった?」
「えぇ。だって佐伯さん、大人で、落ち着いてて……僕なんか相手にされるわけないって」
彼の言葉が、胸にじんわりと染みていく。
「ほら、またそんな顔してる」
森下が笑う。
「照れてますよね?」
「……もう、やめて」
嬉しさと戸惑いが入り混じった声になった。
「やめませんよ」
彼が少しだけ距離を詰める。
その近さに、体が自然と硬くなる。
「佐伯さんが逃げそうだから」
「私は逃げないわよ」
「じゃあ、僕の目、ちゃんと見てください」
視線を合わせた瞬間、時間がゆっくりと流れた。
彼の瞳に映っている私は??上司ではなく、ただの“女”だった。
「……こんなにも誰かの目にさらされるのが怖いなんて、久しぶりよ」
「怖がらなくていいですよ」
森下は少し笑って、続けた。
「僕、佐伯さんを大切にしますから」
「大切に……なんて、簡単に言わないでよ」
「簡単じゃないです。本気です」
言葉の重さに、呼吸が深くなる。
オフィスの静寂の中で、心臓だけがしっかりと生きていることを主張している。
「……ねぇ、森下くん」
「はい」
「もう少し……このままでいてもいい?」
「もちろんです」
並んで椅子に座ると、彼は照れくさそうに笑った。
「佐伯さんって、本当はすごく可愛いですよね」
「やめてって言ってるのに……」
「言いたくなるんですよ。だって、本当のことですから」
静かに微笑む彼を見て、ふと気づく。
私はずっと、誰かに“女として見られること”を怖がっていたのかもしれない。
年齢を理由に、心を閉じていたのかもしれない。
でも今は??
「……ありがとう、森下くん」
「僕、なにかしました?」
「嬉しいのよ。そう言ってくれるのが」
夜のオフィスで、私は久しぶりに“女としての自分”を取り戻していく感覚を味わっていた。
もう少しだけ、この鼓動のまま……
彼と並んでいたいと思った。
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