あうぅ…団地妻の嗚咽
薄暗い団地の一室。壁紙は黄ばみ、家具は古びている。雨が外の階段を打つ音が響き、部屋は湿気を帯びている。静かな空気の中、時計の針が規則的に動く音だけが響いている。台所では、幸子が黙々と皿を洗いながら、時折窓の外に視線を投げかける。背後では、夫・隆司が無言で煙草をふかしながらソファに腰掛けている。
「こんな生活、もう限界よ。」
幸子は皿を拭く手を止め、低く沈んだ声で言った。その背中は小さく震えているが、隆司は彼女を無視するかのようにタバコの煙を吐き出す。
「何が限界だって?お前は家にいるだけだろう。贅沢言うなよ。」
隆司は冷たい目で幸子を睨み、軽く鼻で笑う。彼の態度はいつもと同じ、感情を遮断するかのような無関心。
「家にいるだけ?待つしかないこの気持ちが、あなたにわかるはずないわ。」
幸子は震える声で振り返り、目に涙を浮かべながら彼に問いかける。
「お前は何を期待してるんだよ。俺だって、働いてるんだ。お前みたいに好きなことしてられないんだよ。」
隆司は不機嫌そうにタバコを灰皿に押しつけ、立ち上がる。彼の大きな体が幸子に覆いかぶさるように迫る。
「好きなこと?私は、あなたのために…この家のために、すべてを捨ててきたのに!」
幸子は感情を押さえきれず、一歩前に踏み出し、強く彼に訴えかけた。その瞳には、長年の不満と失望が滲んでいる。
「捨てた?誰も頼んでない。勝手に犠牲者ぶるのはやめろよ。」
隆司の言葉は刺さるように冷たく、幸子の胸に鋭く突き刺さった。彼は背を向け、部屋の隅にある冷蔵庫を開けてビールを取り出す。
「そんなこと言うのね…。もう、あなたと話すことなんてない。」
幸子は震える手で涙を拭い、背中を向けた。嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪えるが、肩が揺れているのが見える。
「じゃあ、出て行けばいいだろう。俺は何も変わらないし、変わるつもりもない。」
隆司はビールを開けて一気に飲み干し、乱暴に缶をテーブルに叩きつけた。その音が二人の間に広がる冷たさを増幅させる。
「出て行く?それがあなたの答えなのね。」
幸子はゆっくりと振り返り、その言葉に固い決意を込めた。涙に濡れた目は、もう隆司を見つめることなく、何かを断ち切るように遠くを見ている。
「そうだよ。お前も楽になるだろ。」
隆司は背中を向けたまま、無感情に答える。
「そうかもしれない…でも、私は楽になりたかったわけじゃない。」
幸子の声は小さく、だがはっきりと響いた。彼女は静かに部屋を出る準備を始めた。小さなバッグに、ほんのわずかな荷物を詰めながら。
窓の外では雨が強まっていた。隆司は何も言わず、ただソファに座り込んで煙草に火をつけた。幸子が玄関を出て行く音が聞こえ、彼の目の前に広がるのは空虚な部屋だけだった。
雨の音が彼の心の中まで浸透し、彼は深く息を吐いた。だが、幸子が戻ってくることはなかった。
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