五十歳になったとき、私は「もう女としての人生は一段落したのだ」と思い込もうとしました。
けれど、心も身体も、まだそう簡単には老いを受け入れてくれません。
鏡に映る自分の顔には、確かにシワもシミも増えました。それでも、メイクを整えてお気に入りのワンピースを着れば、まだ人前に出ても恥ずかしくない。
そう思うたび、心の奥底から「まだ女でいたい」という欲望が、どうしようもなくむくむくと湧き上がってくるのです。
夫とは長年連れ添いましたが、今では会話も生活の報告程度。視線が交わることすら少なくなりました。
夜も、ただ同じベッドに横になるだけ。
かつて抱きしめられ、求められた日々は遠い記憶のように薄れてしまっているのです。
それでも、体はまだ熱を知っている。
誰かに見つめられれば、胸が高鳴る。
指先が触れれば、頬が火照る。
そんな自分の感覚を、五十歳を過ぎてもなお手放せずにいるのです。
ある日、会社帰りに寄ったカフェで、若い店員に「そのネイル、とても素敵ですね」と声をかけられました。
ほんの一言なのに、心がざわつく。
「まだ褒めてもらえる」――その喜びは、思っていた以上に強烈でした。
帰り道、胸の奥に甘い熱が広がり、家に着くまでの足取りさえ軽く感じられたほどです。
女盛りの五十歳。
でも、その盛りは誰に向ければいいのだろう。
家庭では妻であり母である私に、女としての居場所はない。
仕事では上司として部下を導く立場、女を見せる場面ではない。
だからこそ、余計に「女でありたい」という欲望が心の中で膨らみ、持て余してしまうのです。
夜、ひとりでベッドに横たわると、昼間のささいな出来事が蘇ってきます。
あの店員の笑顔。
隣の部署の後輩の、さりげなく差し伸べてくれた手。
街中ですれ違った男性の視線。
――それらを思い返すだけで、女としての自分がまだ生きていることを実感するのです。
けれど同時に、罪悪感や虚しさも押し寄せます。
「いい歳をして、何を期待しているの?」
「もう落ち着くべき年齢でしょう?」
そんな声が、心の中で私を責める。
でも――心は正直です。
五十歳を過ぎたからこそ、女としての欲望はより鮮やかに、切実に疼いている。
若い頃のような勢いではなく、抑えてきた時間の分だけ濃厚に、深く。
女盛りのモヤモヤ。
それは、誰にも言えない心の葛藤であり、同時に私を生かす燃料でもあるのです。
明日も私は鏡に向かい、リップを引きます。
「まだ女でいたい」――その思いを胸に秘めながら。
誰に見せるためでもなく、女としての自分を手放したくないから。
このモヤモヤを抱えながら、それでも私は歩いていくのでしょう。
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