夜更けのリビング。
テーブルに置いたワイングラスの赤が、揺れるランプの灯りに艶やかに映し出されていた。
私はひと口、ワインを含んでから、鏡に映る自分をじっと見つめた。
「……ねぇ、私、まだ女でいられるのかしら」
指でそっと頬をなぞる。
そこには若い頃にはなかったシワや、少し緩んだ輪郭。
だけど、ふと浮かんだ言葉は――
「まだ終わってなんかいない……」
夫は相変わらず仕事一筋。
娘はもう自立して家を出て行った。
残されたこの家で、私は「妻」でも「母」でもなく、ただの影のように存在している。
夕飯を用意しても、夫の返事は素っ気ない「ありがとう」だけ。
触れ合うことも、見つめ合うことも、もう長い間なかった。
そんな乾いた日々の中で――
彼に出会ってしまった。
新しく職場に配属された青年、涼介くん。
笑顔が眩しくて、何気ない仕草にまで心を揺さぶられる。
「美沙子さん、この資料お願いできますか?」
「……ええ、もちろん」
名前を呼ばれるたび、胸の奥が熱くなるの。
あの頃の私が蘇るように。
ある日の夕方、偶然二人きりで残業になった。
オフィスの空気はしんと静まり返り、コピー機の音だけが響いていた。
「いつも助けてもらってばかりで……僕、美沙子さんには感謝してます」
そう言いながら、彼が私の手に触れた瞬間――
電流が走るように、身体が震えた。
「……っ」
慌てて手を引いたけれど、残った熱は消えなかった。
彼の指先の感触が、ずっとそこに焼き付いているようで……。
帰り道、私はわざと遠回りをして夜風に当たった。
頬をなでる冷たい風さえ、熱を冷ますことはできなかった。
「だめよ……私は妻なのよ」
「でも、でも……女でもあるのよ」
その声が心の奥でせめぎ合う。
その夜、ベッドに横たわっても眠れなかった。
隣には無防備に眠る夫。
私は目を閉じ、涼介くんの笑顔を思い出していた。
「美沙子さん……きれいです」
もし彼にそう囁かれたら――。
私はきっと、抗えない。
胸の奥で、抑えきれない熱がどんどん膨らんでいく。
シーツを握りしめ、唇を噛み、必死にその衝動を押さえ込んだ。
「どうして……こんなにも欲してしまうの……?」
翌日、鏡の前で口紅を引いた。
鮮やかな赤が、唇に命を吹き込む。
その瞬間、私の中の何かが囁いた。
「もっと見てほしい」
「もっと触れてほしい」
「私はまだ、女なのよ……」
秋風の中、ふたり並んで歩いた帰り道。
涼介くんが不意に立ち止まり、私の方を見つめた。
「……美沙子さんって、すごく魅力的ですよ」
心臓が跳ね上がった。
その瞳に吸い込まれるように、私は一歩、彼の方へと傾いてしまった。
「だめ……これ以上は……」
そう言いながらも、足は止まらなかった。
吐息が触れ合う距離まで近づいて、時間が止まったように感じた。
家に帰ると、夫は相変わらずソファで眠っていた。
その姿を見て、胸が締めつけられた。
「どうして私を見てくれないの……?」
「女である私を、もう必要としてくれないの……?」
涙がにじんだけれど、その奥にあるのは、消えない欲望だった。
夜更け。
私は再び鏡の前に座った。
赤く染めた唇を指でなぞりながら、低くつぶやいた。
「私は……まだ女。
まだ、愛されたいのよ……」
その瞬間、胸の奥から押し寄せる熱に、私は小さく震えた。
禁断の欲望に揺れる心は、もう戻ることはない――。
コメント
コメントを投稿