男として、忘れられない一日がある。
あれは、義理の母――いや、もうすぐ他人になってしまう女性との、最後のデートの日だった。
義母は50代。年齢を重ねてなお、色っぽさを失わない人だった。
薄化粧に漂う香水の匂い、そして、どこか憂いを帯びた微笑み。
再婚することが決まってから、その笑顔はさらに柔らかくなったように見えたが……俺には、どうしても受け止めきれない感情があった。
「今日は……付き合ってくれてありがとうね」
義母が言った。
いつもの落ち着いた声なのに、その裏にかすかな震えを感じた。
俺は笑って答えるしかなかった。
「いいですよ。最後かもしれないですからね」
“最後”という言葉に、自分でも胸が締め付けられる。
彼女は俺にとって、ただの義母ではなかった。
父が亡くなってから数年、女手ひとつで家庭を支えてくれた。
俺にとっては母であり、しかしどこかで“女”として意識してしまう存在でもあった。
駅前の喫茶店。
昔から二人でよく立ち寄った場所だ。
窓際の席で向かい合うと、あの頃の思い出が一気によみがえる。
義母はカップを手に取り、少し遠くを見ながらつぶやいた。
「再婚するなんて、ね。あなたのお父さんには、申し訳ないと思うのよ」
「そんなこと……」と俺は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
心の中で叫びたかった。“再婚なんかしてほしくない”と。
だけど、口に出せば、すべてが壊れる気がした。
義母の指先が、カップの縁をなぞる。
その仕草が妙に色っぽく見えてしまう。
俺は視線をそらすことができなかった。
「あなたがいてくれたから、ここまでやってこれたの。
……でもね、女って、やっぱり弱いのよ。誰かに寄り添いたいって思ってしまう」
そう言った彼女の瞳には、涙がにじんでいた。
その涙が、俺の心を大きく揺さぶる。
喫茶店を出て、夕暮れの河川敷を歩いた。
川面に映るオレンジ色の光。
秋風に揺れる髪を見つめながら、俺はようやく口を開いた。
「義母さん……幸せになるんですよね?」
彼女は小さくうなずき、そして俺の腕にそっと手を重ねた。
その温もりが、胸の奥まで染み込んでくる。
理性ではわかっている。これは“最後”の思い出。
もう二度と、この距離で触れ合うことはない。
「あなたにとっては、迷惑な存在だったかしら」
「そんなこと、絶対にないです。俺にとって……義母さんは特別な人でしたから」
言ってしまった。
心の底に押し込めていた想いを。
彼女は一瞬、驚いたように目を見開き――それから、切なげに微笑んだ。
「……ありがとう。その言葉だけで、私は十分」
彼女の声は震えていた。
それが愛の返事なのか、それとも拒絶なのかはわからない。
ただ、その場に流れる空気が、あまりにも甘く、そして切なかった。
最後に別れ際、彼女は俺の頬に手を添え、囁いた。
「もう会うことも減るでしょうけど……あなたのことは、忘れないわ」
そして軽く唇を寄せてきた。
ほんの一瞬の、淡い口づけ。
母と息子の関係を越えてしまう危うさを秘めた、それでいて哀愁に満ちた口づけだった。
その夜、帰り道で俺はずっと泣いていた。
悔しさなのか、寂しさなのか、愛情なのか、自分でもわからない涙だった。
――あの日を境に、義母と会うことは少なくなった。
再婚相手と幸せに暮らしているらしい。
けれど、俺の胸の奥には、あの河川敷の風と、彼女の温もり、そして最後の口づけが、今も色濃く残っている。
男として、一生忘れられない哀愁のデート。
それは、色っぽい義理母との、最後の思い出だった。
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