秋の夕暮れ、突然の雨に私は立ち尽くしていた。
折りたたみ傘を持っていなかった私は、濡れるまま駅前の小さなカフェに駆け込んだ。
「美沙子さん!」
振り返ると、そこにいたのは涼介くんだった。
スーツの肩が雨で濡れていて、それでも笑顔は明るくて……私は胸を締めつけられた。
「偶然ですね。よかったら、一緒に……」
二人並んで座った小さなテーブル。
窓の外では雨粒がガラスを打ち、街灯の光を滲ませていた。
私はワイングラスを指でなぞりながら、彼の横顔を盗み見た。
若々しい輪郭、伏せた睫毛の影。
それを見ているだけで、胸がざわついて仕方なかった。
「美沙子さんって……いつも香りがいいですね」
不意に彼がそう言った。
心臓が跳ねて、思わず笑ってごまかした。
「そんなこと……気のせいよ」
「いえ、ほんとに。落ち着くんです」
彼が少し身を寄せた瞬間、彼の体温と雨の匂いが混じり合って、私の全身を包んだ。
その距離は、罪を予感させるほどに近くて――私は呼吸を忘れた。
家に帰れば、夫はいつものようにソファで眠っている。
その姿を横目に見ながら、私は心の中で呟いた。
「私を見てくれる人が、他にいる……
私を、女として感じてくれる人が……」
罪悪感はあった。
でも、それ以上に抗えない欲望が心を占めていた。
翌日、残業を終えた帰り道。
またしても雨が降り出し、私と涼介くんは同じ屋根の下に駆け込んだ。
小さなアーケード。二人きりの空間。
「また一緒ですね」
「ほんとに……」
私は濡れた髪を整えていた。
そのとき、涼介くんがそっとタオルを差し出してくれた。
「風邪ひきますよ」
彼の手が私の髪に触れた瞬間、体が小さく震えた。
こんなにも近い距離で、誰かに触れられるなんて……。
「美沙子さん」
低い声で呼ばれて、私は彼を見つめてしまった。
吐息が触れるほどの距離。
雨音が、二人だけの世界を覆い隠してくれる。
「……だめ、よ」
そう言いながらも、私はその場から動けなかった。
背中に走る熱、胸の鼓動、唇が乾く。
心と身体が正反対の声をあげていた。
その夜。
鏡の前に座った私は、濡れた髪をほどき、赤い口紅を引いた。
そこに映る自分は、妻でも母でもなく――欲望に震える女だった。
「私はまだ……女。
まだ、愛されたいのよ」
指で唇をなぞりながら、雨宿りの夜に近づいた彼の顔を思い浮かべる。
あの吐息、あの手のぬくもりが、全身を熱くさせる。
そして私は悟った。
一度芽生えた欲望は、もう戻すことはできない――。
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