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「金木犀の頃」


由美子は四十五歳になった。離婚してから三年、娘も独立し、マンションの部屋には自分一人分の静けさが満ちていた。

秋になると決まって思い出すのは、庭の金木犀だった。元夫と暮らした家の、あの甘い香り。離れてからは、その匂いを嗅ぐたびに胸が締め付けられるようで、ずっと避けてきた。

「金木犀、お好きですか」
「金木犀、お好きですか」


その日、由美子は仕事帰りに公園を抜けようとして、ふいに香りに包まれた。立ち止まると、ベンチに座る男性と目が合った。同じマンションの、確か五階に住む人だった。

「金木犀、お好きですか」

男性は穏やかに笑いながら言った。名前は確か、坂井といった。少し白髪の混じった髪、仕事帰りらしいスーツ姿。




「昔は苦手だったんです。でも最近は、悪くないなと思えてきて」

由美子がそう答えると、坂井は隣を指して座るよう促した。断る理由もなく、由美子は腰を下ろした。

「金木犀の花言葉、知っていますか」

「いいえ」

「謙虚、それから真実、ですって。あとひとつ、初恋という意味もあるそうです」

由美子は思わず笑った。「この歳で初恋だなんて」

「歳に関係あるんですか、そういうものは」

坂井の言葉は静かだったが、まっすぐに由美子の心に届いた。考えてみれば、彼との立ち話はこれまでにも何度かあった。ゴミ出しの時間、エレベーターの中、回覧板を渡すとき。そのたびに少しずつ言葉を交わし、いつしか彼の声を待っている自分がいた。



「坂井さんは、奥様は」

「五年前に亡くなりました。あなたは」

「三年前に、離婚しました」

二人の間に、しばらく沈黙が流れた。それでも気まずさはなく、むしろ何か通じ合うものがあるようだった。

「また、ここで会えますか」

坂井が尋ねた。由美子は香りを深く吸い込み、頷いた。

「金木犀が咲いている間は、きっと」

「咲き終わったら?」

「そうですね……」由美子は微笑んだ。「終わらせる理由を、探さなくてもいい気がします」



風が吹き、花の香りがふわりと舞った。四十五歳になっても、心はまだ柔らかく、何かを始めることを恐れずにいられるのだと、由美子は初めて知った気がした。

夕暮れの中、二人はしばらく並んで座っていた。言葉はもう、いらなかった。


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