グラスの中でカランと氷が鳴る。四十八歳の真由子(まゆこ)は、行きつけのバーのカウンターで、深く息を吐き出した。
広告代理店でクリエイティブ・ディレクターとして第一線を走ってきた。仕事に没頭するあまり、夫とは数年前にすれ違いから別れたが、後悔はしていない。常に洗練されたスーツを着こなし、後輩たちからは「隙のない憧れの上司」として慕われてきた。
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| 四十八歳の真由子(まゆこ) |
しかし今日、半年がかりで進めてきた大型プロジェクトの責任者を、突然、社長の意向で三十代の若手男性社員に交代させられた。理由は「ターゲット層に近い、より若い感性が欲しい」というものだった。長年会社に尽くしてきたプライドが、音を立てて崩れ落ちるような一日だった。
「お疲れのようですね、真由子さん」
マスターが静かに差し出したのは、注文したマティーニではなく、一輪の大きく鮮やかな真紅の花だった。
「さきほど、花屋の倉田さんが見えました。真由子さんが今回の件で落ち込んでいるんじゃないかと心配して、これを置いていかれましたよ」 倉田は、真由子が駆け出しの頃から無理な発注を聞いてくれていた、間もなく店を畳む老齢のフローリストだ。
手渡されたのは、大輪のダリアだった。 幾重にも重なる鋭い花びらが、仄暗い照明の下で燃えるような生命力を放っている。
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| 「ダリアの花言葉、知っていますか?」 |
「ダリアの花言葉、知っていますか?」 マスターの問いかけに、真由子は自嘲気味に笑った。 「ええ。赤は『華麗』や『気品』……でも同時に、『不安定』っていう意味もあるのよね。今の私のキャリアみたい。華やかに見えて、足元はぐらぐらで、いつ誰に居場所を奪われるかわからない」
積み上げてきた実績も、大人の女としての自負も、結局は「若さ」や「会社の都合」という波の前に、呆気なく揺らいでしまう。
「そうでしょうか」マスターはグラスを磨きながら、静かに首を振った。 「ダリアは、あの細い茎で、あれほど大きく重い花を咲かせます。風に吹かれれば大きく揺れる。とても不安定な花です。でも、だからこそ、折れないための『しなやかさ』を持っている。倉田さんは、真由子さんのそのしなやかな強さを『気品』だと言いたかったんじゃないですか」
真由子はハッとして、手元の真紅の花を見つめた。
完璧で、盤石で、絶対に揺るがないキャリアや人生なんて、最初からどこにもなかったのだ。 雨風に打たれ、理不尽に揺さぶられながらも、そのたびに必死で茎を反らせて、自分の足で立ち続けてきた。その泥臭くも必死な『不安定さ』の連続こそが、結果として、周囲の目に映る私の『華麗さ』を作ってきたのではないか。
鼻を近づけると、微かに青く、生命力に満ちた香りがした。
「……そうね。揺れるからこそ、折れないのかもしれない」
真由子は残っていたマティーニを飲み干すと、ダリアをそっと持ち上げた。プロジェクトを外された悔しさが今すぐ消えるわけではない。明日からまた、会社という組織の中で自分の居場所を証明し直さなければならない、不安定な日々が続く。
けれど、胸の奥には不思議と、静かな闘志が戻ってきていた。
「マスター、お会計を。この花に似合う一輪挿しを、明日買いに行かなくちゃ」
夜の街へ踏み出した真由子のヒールの音は、いつものように、凛として気高く響いていた。
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