夫の上司・森田部長が初めて私の前に現れたのは、夫の会社の懇親会だった。五十代半ばの貫禄ある体格、低く響く声、そして厳格そうな顔立ちとは裏腹に、人懐っこい笑顔を浮かべる。夫は彼を尊敬し、心から信頼していた。
「奥さん、美しいねえ。こんな奥さんが家にいたら、仕事なんて手につかないな」
お世辞だとわかっていても、少し顔が熱くなる。その夜から、森田部長の視線が頭に焼き付いて離れなかった。
それから数週間後、夫の出張が決まり、一人の夜が増えた。そんな折、部長からの電話。
「困ったことがあれば、遠慮なく言ってよ。君は俺の部下の大切な奥さんなんだから」
その優しい声に、思わずほっとする自分がいた。
そして、ある雨の夜。夫の帰りがまた延びると知らされた私は、なんとなく寂しさを紛らわせたくて、部長の誘いに応じてしまった。
「一杯だけ。すぐ帰りますから」
そう言い訳しながら向かったホテルのラウンジ。落ち着いた照明の下で、部長は穏やかに微笑んでいた。グラスを傾けながら、私の悩みをじっくりと聞いてくれる。
「君はいい奥さんだよ。…でも、寂しくはないのか?」
優しく差し出された手に、指が触れる。その瞬間、背中にぞくりとした快感が走った。
「ダメ…こんなこと…」
けれど、強く握られる手を振り払えない。心の奥に押し込めていた欲望が、音を立てて崩れていく。背徳感が押し寄せるのに、肉体は逆らえなかった。
部長の唇が近づき、私はほんの一瞬だけ目を閉じた。そして、次に開いた時には、もう後戻りできない場所にいた。
次の日の朝、目が覚めると、隣には穏やかな寝息を立てる部長の姿。シーツの感触が肌に馴染みすぎていて、現実が重くのしかかる。
「どうしよう…」
夫の顔が浮かぶ。罪悪感で押しつぶされそうなのに、昨夜の感触がまだ残っている。あの手の温もり、囁くような声、支配するような視線。
私は何かを失ったのか、それとも、何かを求めてしまったのか。
揺れる心を抱えたまま、私はそっとベッドを抜け出した。
部屋を出ようとしたその時、背後から低く響く声が耳元に届いた。
「もう帰るのか?」
驚いて振り向くと、部長は私をじっと見つめていた。深い瞳に捉えられた瞬間、心臓が早鐘を打つ。逃げなければいけないのに、足がすくんで動かない。
「後悔してる?」
答えられなかった。正解がわからない。頭では「間違いだった」と言うべきなのに、胸の奥では何かが渇望している。
部長はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。そのぬくもりが昨夜を鮮明に思い出させる。
「君が望むなら、もうやめよう。でも…俺は待ってるよ」
その言葉が耳に残るまま、私はホテルを後にした。
家に帰ると、いつもの日常がそこにあった。夫の写真が飾られたリビング、私を待つべきはずの温かい家。
けれど、心は揺れ続ける。罪の意識と、忘れられない感触。
次に夫が出張に行く時、私はどうするのだろうか。
その答えが出せないまま、私は静かに目を閉じた。
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